翻訳文学に近代日本の礎を見る
 翻訳文学総合事典を編纂した理由/数々の新発掘資料の集大成
  文学研究に挿絵を導入する/日本人の血肉となった文化再発見


 【対談 川戸道昭・榊原貴教】


  ―『週刊読書人』 2010年1月29日号掲載―



【川戸】これまで日本文学というものをいろいろな人たちがさまざまな角度から取り上げてきましたが、その中で翻訳文学だけがなぜかあまり顧みられないという傾向がみられました。そのことは、翻訳文学の歴史全体を見わたす通史というものが書かれていないということからもわかります。しかし翻訳文学の近代文学に占める位置というか、重要性というのは必ずしも小さなものではなかった感じがします。それが重要であるという理由はいくつかあげられると思いますが、まず第一に、翻訳文学は日本の文学者が創作をする際の重要なヒントとなってきたということです。それと、もう一つ、こちらが大きいと思いますが、翻訳文学は近代文学の中味そのものを構成してきたということです。翻訳文学は、創作文学とともに日本人の精神を育む重要な糧となってきた。こうした事実があるにも関わらず、なぜかその部分に正面から光を当てたものがあまりみられない。それを必要とした文学的・社会的背景と重ね合わせながら、日本の近代文学が形成されていく過程において翻訳文学が担った役割をさまざまな角度から総合的に検証してみようという試みがどういうわけか欠落していたと思います。

【榊原】今回僕たちが『翻訳文学総合事典』を編纂・刊行した理由は、まさにこれまで欠けていたその重要な部分を補う必要性を痛感したためでした。翻訳文学が、日本の近代文学において担った重要な役割について、川戸さんは今二つの点をあげられましたが、それをもう少し具体的にお話しいただけますか。

【川戸】まず第一の創作文学にヒントを与えたという点ですが、翻訳文学は初期の頃にはヒントだけではなくて手本となってきたという一面が見られました。それは近代文学が形成される過程をみれば一番よく分かると思います。たとえば明治二十四年に坪内逍遙が『早稲田文学』の創刊間もない第三号で「外国美文学の輸入」という文章を発表して、その中で外国文学を翻訳することの必要性を強く訴えています。逍遙によれば、外国文学を翻訳することには三つの効果が期待できるといいます。第一は、才能ある人に創作の手本を示し、それによって新しい文学が生まれるきっかけを作ること。第二は、翻訳をすることによってそれまでとは違う新しい読者層が形成されて行くということ。そしてこれが一番重要だと思うのですが、第三に、それによって新しい文学に相応しい新しい文章の形態が定まっていくのではないかということ。この三点をあげているのですが、それはいずれを取っても近代文学の歯車を前進させていく上でなくてはならない必須の要件だったと思うのです。

【榊原】そのことをまた別の角度から裏づける面白い資料が今回川戸さんが担当した「日本翻訳文学史」(『翻訳文学総合事典』第一巻所収)の中で提示されていますね。
【川戸】そうした資料は何点かあげておきましたが、そのなかで特にここに紹介しておきたいのは「現今小説名家一覧表」という当時の小説家の番付表です。逍遙の「外国美文学の輸入」が書かれたのと同じ明治二十四年に刊行されたその番付表の東方トップに来るのは森鴎外、そして二番目が幸田露伴、ここまでは私たちも納得できるのですが、その次に今日あまり知られていない人物がくる。それは森田思軒という人物です。思軒は、明治の翻訳王という異名を取った人物で、とくにこれといった創作を発表したわけではない。その人物が、鴎外、露伴に続くナンバースリーの位置にランクされているというところに当時の翻訳文学が担った重要な役割が象徴的に表れていると思います。その他にもこの番付表には、若松賤子や小金井喜美子、内田魯庵や原抱一庵といった、当時翻訳家として名前が知られていた人物がたくさんでてきます。つまり、この番付表は近代文学が形成される過程において、翻訳文学がいかに重要な役割を担ったかということを示す一つの貴重な証拠資料というわけです。

【榊原】そうした埋もれた資料の一つひとつに光を当てながら、近代日本文学史上に占める翻訳文学の位置を再確認していこうというのが、今回の『翻訳文学総合事典』の主な目的の一つだったと思います。先ほど川戸さんが言ったもう一つの点、翻訳文学が近代文学の主要な中味を構成していたという点についても、同じように面白い資料があったらご紹介いただけますか。

【川戸】これは明治二十年代から三十年代にかけて少年期、青年期を過ごした正宗白鳥の「日本文学に及ぼしたる西洋文学の影響」という文章に書かれていることですが、白鳥は自然主義以前の日本の文学で最も若者の心を惹きつけていたのは、二葉亭四迷や森鴎外、小金井喜美子らの翻訳であって、創作文学ではなかったといっています。実際に白鳥が使った言葉に即してその状況を概観しますと、「自国の小説よりも、それらの外国小説において、我々は自己の影を見た。自己の夢を見た。或いは自己の心に潜んでいるものを引き出される感じがした。従って文学というものは、いかに大いなる力をもっているかを我々は痛切に感じさせられた。」とあります。それに対してこういう傑れた外国文学の影響を受けて出藍の譽れといわれるような独自の文学が出たかというと、これは失望の外はなかったというのが白鳥の見解です。要するに、自然主義以前の文学界にあって、若者の心を育む精神的糧としての文学の主要部分を外国文学が担っていたというのです。このような状況は、大正に至っても、いや、昭和の戦前・戦後に至ってもずっと変わっていない。昨今のドストエフスキー・ブームなどをみますと、そうした状況は今も続いている。少なくとも、翻訳文学が、私たちの日頃手にする文学の主要な部分を構成するという事実は変わっていません。それほど重要な翻訳文学でありながら、日本人が真正面からそれと取り組んできた歴史を、あるいはそれをヒントに新たな文学が生みだされていく状況を、明治初年から現在に至るまでを通覧するかたちで提示しているものがほとんど見あたらない。それは私にとって不思議というほかありませんでした。

【榊原】それだけ重要な翻訳文学だったのに、研究においても一般的な常識の中でもなぜそれが消えていったのか、僕にとってもそれが大きな疑問の一つでした。しかし文献を調べていく過程の中で分かってきたことは、外国文学の翻訳目録を作成してみると、翻訳者として近代文学者の名前が大体入っているということでした。つまり当時の近代文学者は作家的出発のところでみんな翻訳に携わっている。今名前が出ました正宗白鳥も読売新聞時代は翻訳ばかりやっていたし、鴎外もそうでした。漱石でさえ初期にはオシアンの詩の翻訳をやったりと、翻訳をやらない人はいなかった。

【川戸】明治二十年代の鴎外などはむしろ翻訳家として名前が知られていましたよね。

【榊原】それがどうして翻訳文学が消えてしまったのかという問題は、たぶん尾崎紅葉の『金色夜叉』の問題とつながると思います。あれがアメリカで出版された小説の翻案であったことを紅葉はなぜ隠したのか。それはおそらく明治三十年代ぐらいから翻案の価値が薄れてきたことと関係があると思います。その頃ドイツ文学や英文学の正確な訳というのが問題になってきて、翻案は二流だと思われるようになった。その防衛策として紅葉は原作があることを隠してしまった。しかしいろいろ資料を探す過程で、近代文学の作家たちがほとんど翻訳と関わってきたことが分かってきました。そういうことから、翻訳は外国文学と日本文学を橋渡しするもの、いやむしろ全体をカバーするのが翻訳文学ではないかという思いを強く懐くようになりました。そうなると各外国作家の研究や文献目録を作るだけでは駄目で、全体を見わたすものが必要だと考えるようになったのです。

【川戸】翻案も含めた翻訳文学を抜きにして近代日本文学の歴史はとうてい語れないということですね。それを創作文学でしかも純文学に限るというような枠を定めてしまったところにこれまでの文学史の問題がありました。

【榊原】さらには、文学を研究するには文章だけでなく、挿絵から何から全部やらなければいけない。純文学とか大衆文学とか分けるのではなく、受け入れられた文学全体をトータルに見わたす視点を確保しつつ、その上で個々の作品の位置や意義を検証していく姿勢こそが必要なのだと。それで、ともかく事典を作ろうということになったというわけです。

【川戸】さきほど榊原さんがおっしゃったように、翻訳文学は、明治三十年代に大きな転換期を迎えます。東京帝国大学や東京専門学校(早稲田大学の前身)の外国文学研究体制が次第に整備されて多数の翻訳文学の担い手が世に送り出されていく中で、紅葉のようないわば素人翻訳家は次第に姿を消していく。翻訳から完全に身を引かないまでも、少なくとも翻訳文学であることを堂々と前面に掲げるようなことはしなくなります。要するに、それは翻訳文学の主な担い手が作家やジャーナリストから専門の研究者へと転換する分岐点であったというわけです。

【榊原】原抱一庵のマーク・トウェインの翻訳が山縣五十雄という東京帝国大学の英文学科に籍をおいたことのある人物によって完膚無きまでにたたきのめされるのもちょうどその頃のことでした。抱一庵はそれによって作家生命ばかりか肉体的な生命さえも失ってしまう。それは、言ってみれば、翻訳文学の専門化が図られる過程で起こるべくして起こった素人翻訳家締め出しの見せしめ的行為のようにも見えます。

【川戸】確かにそういう印象が強くしますね。ともあれ、明治三十年代以降、翻訳文学は、それを専門とする人々の独占物のようになっていく。

【榊原】ある時期、日本の文学界から翻訳文学が消えてしまうという印象を受けるのはそういうことと無関係ではないのでしょうね。明治三十年代以降、文学史の表面に登場してくるのは、鴎外の『即興詩人』、上田敏の『海潮音』、逍遙の沙翁傑作集というように、作家でなおかつ外国文学に精通した人たちの作品が主で、それ以外の〈単なる専門家〉、あるいは外国文学に精通しない〈単なる作家〉の作品は次第に表舞台から姿を消していく。それを近代文学として取りあげるには値しないという傾向が強まっていくわけですね。

【川戸】しかし、文学史から消えたからといって、翻訳文学自体が無くなったわけではありません。一方で、創作文学にヒントを与え、また一方で日本人の心を充たす近代文学の主要な中味を構成していたという事実は厳然と存在したわけです。明治三十年代以降も、間違いなく、創作に優るとも劣らない量の翻訳が依然として出版されていた。問題は、それが、ひとたび顧みられなくなってしまうと、毎年、出ては消え出ては消えで、時間の経過とともにその歴史をふり返ることが難しい状況になってきたということです。そのことに、いち早く気がついたのが柳田泉という人物でした。柳田は、明治初年以来の西洋文学の移入に関する膨大な資料を収集し、それをもとに当時の翻訳文学に関する研究を精力的に行いました。しかし、彼は、関東大震災と先の大戦と二度にわたって資料を焼いてしまう。こんなことならもっと早く研究に手をつけておくべきだったと悔やみますが、あとの祭りでした。戦後になって再び資料を集めようと思っても戦前目にした資料の何分の一も出てこなかった。そういうこともあって、彼の『明治初期翻訳文学の研究』は明治二十二年のところで終わってしまうんですね。昭和四十四年になくなる寸前まで書き続けていた『西洋文学の移入』という本も明治三十年のところでストップしています。

【榊原】今回の『翻訳文学総合事典』は、その途中で終わった柳田の仕事を完成させるという一面をもっていますね。

【川戸】確かにそういう面があると思います。私たちは柳田泉が遺した研究を出発点として、そこに新たな二つの目標を設定しました。一つは、明治初年から三十年までのところで柳田が取りあげなかった翻訳、例えば児童文学の翻訳や学校教育関連の翻訳を積極的に取りあげていくこと。合わせて、柳田が発見し得なかった新しい資料の掘り起こしにも全力を注いでいくこと。それともう一つ、こちらがより大きな目標だと思いますが、柳田が全く着手しなかった明治三十年以降の翻訳資料を収集・整理して、明治・大正・昭和にわたる翻訳文学の一つの体系的な歴史的流れを再構築しようということです。この仕事を二人で分担しながらこれまでずっとやってきて二十数年が経ちました。ようやくそれが一区切りついたところで、持ち上がったのが今回の『翻訳文学総合事典』の企画というわけです。

【榊原】最初は資料を整備することが目的だったのですが、整備すれば整備するほど今まで知らなかったことがいっぱい出てきました。例えばアンデルセンの調査研究では、明治二十年代以降にならないと翻訳がないといわれていましたが、実はすでに「裸の王様」の翻訳があるということが僕たちの調査で分かってきました。さらに調べていくと、その原典が明治期に多くの学校で用いられていたアメリカ製の英語教科書「ナショナル・リーダー」であるという興味深い事実も分かってきました。なぜそれを特定できたかというと、最後に王様が街を練り歩く場面が、アンデルセンの原作では徒歩で歩くことになっているのに、「ナショナル・リーダー」の英訳では馬で歩くように変えられている。アメリカのフロンティアで生活する子どもたちにも分かるように、馬で練り歩くように変更されているんですね。その新たに見つかった翻訳も馬に乗って歩くものになっている。そればかりか、大変興味深いことに、その後明治四十五年までに翻訳された「裸の王様」の翻訳十七点のうち実に十一点までが馬に乗って街を歩くものに変えられている。そのことは翻訳に添えられている挿し絵を見ればすぐに分かるんです。つまり、そこに添えられた挿し絵は、翻訳文学を研究する上で切り離すことの出来ない重要な情報を含むものとなっている。そこで、今度は、文字だけでは十分ではないということになって、今回の『翻訳文学総合事典』にはどの巻にも挿し絵を入れることにしました。絵にも注目しないことには作品全体を論じたことにはならないということを広く知ってもらいたかったのです。

【川戸】今榊原さんがおっしゃった問題は、単に挿し絵そのものの問題だけではなくて、その挿し絵を翻刻する技術までもが同時に輸入されているのだという非常に興味深い事実を含んでいます。つまり、翻訳文学の移入史には、そこに掲載された挿し絵を翻刻するための石版画、銅版画、木版画の導入史が同時に投影されているということになります。例えば石版画を例にとりますと、梅村翠山という人物が東京銀座に彫刻会社を設立して石版画の印刷に乗りだすのは明治七年という年です。その翌年の二月には、早くも、『開巻驚奇 暴夜(アラビヤ)物語』という『アラビアン・ナイト』の翻訳が出版され、そこに彫刻会社製石版画が掲載されます。そしてさらに五年後の明治十三年には、『ガリヴァー旅行記』の翻訳書にカラーの口絵が掲載され、そこには砂目石版という技術を用いたイギリス本国で刷られているのとほぼそっくりの口絵が掲載されるという画期的な事が起こります。さらに明治十年代後半になると、今度は、口絵だけではなくて、当時の文学書に流行したボール表紙本の表紙に石版画が使われるようになります。その頃出版されたシェイクスピアやジュール・ヴェルヌなどの翻訳書は、大半がそうした多色刷りの石版画の表紙絵を伴うボール表紙本となっています。要するに、翻訳文学書に掲載された挿し絵や口絵、表紙絵を取りあげてそれを順に並べていくだけで日本の石版画の歴史が概略たどれてしまう、そういう日本の文化史上見逃すことのできない重要な事実が翻訳文学の歴史には含まれているんです。ですから今回の事典では、表紙絵も口絵も挿し絵もすべて含めて、文字媒体としてだけでなく視覚媒体としての翻訳文学というものを提示できるようにしています。その結果、第一巻だけでも千数百枚の写真を撮って掲載することになり、全巻合わせると数千枚の写真を提示することになりました。

【榊原】今まで文学というと、個人が活字の黙読によって自分自身の何かを掴み取っていくものだと信じられていました。確かにそれは大きな力を持ちましたが、江戸時代から印刷文化が発生してどんどん読者が広がっていく中で、その導入部を受け持っていたのが何であったかというと、江戸の草双紙や大正期の『赤い鳥』などを見ても分かりますが、半分は絵で構成された雑誌や書物なんですね。つまり絵が含まれることで文学が大衆化されていった。

【川戸】大衆化ということでいえば、初期のシャーロック・ホームズの翻訳の中にも同様なことが見てとれます。例えば、日本で最初の『シャーロック・ホームズの冒険』の全訳である南陽外史の「不思議の探偵」という翻訳です。その一編に例の「赤毛連盟」の翻訳があるのですが、それを南陽外史がどう翻訳しているかというと、非常に傑作で、赤毛をすべて「禿(はげ)頭」に変えて「禿頭倶楽部」として翻訳している(笑)。日本人相手に「赤毛連盟」などといっても理解してもらえないことが分かっていたんでしょうね。これは実に日本風の受け入れ方ですよね。そうでもしなければ、一般の人達には作品自体受け入れられることもなかった。それとこの「禿頭倶楽部」が面白いのは、そこに原作に掲載された挿し絵を、頭だけ禿頭に変えて翻刻していることです。その絵とともに展開されるホームズの探偵物語はどうかというと、それが今日読んでも大変スリルに富んだ魅力溢れる内容なんです。

【榊原】挿し絵まで翻案されているんですね。

【川戸】それが翻訳文学として劣っているかというと、必ずしもそうとはいえないと思います。大衆文学作品として一般の人には非常に喜ばれたのだし、そうでもしなければ、作品自体受け入れられないことが分かっていた。日本に近代文学が根づく過程における翻訳文学というのは、正宗白鳥がいうように、「日本流の中国料理、日本流の仏蘭西料理」という言葉がピッタリすると思います。西洋文学は、日本流の味付けをもって初めて口にしうるもの。言い換えれば翻訳文学の妙はその味付けにこそあったということができるのではないでしょうか。日本人が昔から一番得意としてきたのは、いわゆる本歌取りの分野だったと思います。それが翻訳文学の中にも翻案という形で現れている。そういう意味で、今回の事典では、今後の研究に期待するという意味も込めて、明治・大正・昭和期の翻案関係の資料をできるかぎり取り込んでいます。

【榊原】僕たちが二十数年かけて翻訳文学事典を作ってきて、なぜここまでやってきたのかと振り返ってみると、やはり翻訳文学は江戸時代からずっとあるのに、研究そのものは非常に浅い歴史だったということが根本にあるのだと思います。以前『明治翻訳文学全集《新聞雑誌編》』別巻の中で発表した五十頁以上に及ぶ翻訳研究文献目録によってこれまでの研究の流れを振り返ってみると、明治大正時代にも研究はあるにはあったけれども、かたちになってはいませんでした。かたちになったのは昭和二年のことです。それと大正から昭和にかけて世界文学全集が次々と出たんですよ。そこから翻訳文学史とか翻訳文学年表というものが現れ始めた。こうした動きが現れてきたのは、一つには、明治維新が起こって日露戦争まで来て日本が国力を得てきた源泉としての重要な役割が翻訳文学にあったという思いがあったのだと思います。そういう雰囲気の中で昭和二年ぐらいから翻訳文学の目録作りと研究が始まり、それから戦争に入るに従って敵の文学だということでだんだん消えていって、戦後は各作家研究から復興してきました。その後、昭和四十年代に政府の指導の下で行われた「明治百年記念事業」の中で、それまでの研究の全体をまとめようという動きが出てきました。直接の影響ではないけれどもその流れの中で出てきたのが国会図書館の『明治・大正・昭和 翻訳文学目録』ですし、それから先ほどお話に出た柳田泉の遺稿『西洋文学の移入』が出たのもその頃でした。だけど「明治百年」のお祭りが終わると同時に消えてしまって、一時研究者がほとんどいなくなってしまいました。

【川戸】「明治百年」の時の基礎となった資料は、昭和初年以降吉野作造や柳田泉といった人たちが集めたもので、当時はそれ以外の資料がほとんどなかった。それに対して今回の事典では、柳田たちの資料はもちろん、昭和四十年代以降に発見された新たな事実や資料をほぼこの中に収録しています。また最後の五巻目では、現在第一線で活躍する研究者二十八名の協力を得て、最新の研究の成果も提示しています。「明治百年」の時から数えて実に四十数年にしてはじめて柳田氏たちのものとはまた違う新資料が提示されたということになります。それはいわば二十数年の研究・調査の賜というわけです。せっかくそれだけの資料が集まったのだから、何か一つ記念碑的なものを残しておこうという気持が今回の事典作りの根底にありました。やはり何か象徴的なものがないとみんな集まってこない。今回は二十八名の研究者が賛同して論文を寄せてくれましたが、依頼したときには二十枚か三十枚でお願いしますといったのにみんなそれ以上書いてくれるんですね。お陰で第五巻の研究編はそれだけで四百五十頁を越える大部なものとなっています。やはり自発的に研究したい人たちが集まってきたのだなということがこういう面からも実感できます。

【榊原】グローバルな視点でいえば、この事典は日本だけでなく世界に提示されていくわけですから、こうした資料が基になって海外での日本研究が進んでいく部分もあるわけです。だからこの事典によって日本における翻訳文学の基礎が提示できたかなという思いはありますね。また西洋文学は日本人が百年かけて目標にしてきたものですから、その翻訳にはプラス面がある一方で、マイナス面もたくさん出てきています。例えば明治期に『ガリヴァー旅行記』が二十点ぐらい訳されているのと同じぐらいの量で『水滸伝』も訳し直されて出ているのですが、そのことは明治文学史の中には出てこないし、日本の歴史の中にも出てこない。つまり近代の知識人たちはヨーロッパにだけ目を向けていたんですね。しかし『水滸伝』などの受容はずっと底流で流れてきているし、いまだにブームも続いています。それは今回の事典の二巻から四巻までに収められた作家別・作品別受容の流れをみれば一目瞭然です。文献のきめ細かい調査をやっていると、日本人が自分たちの血肉になっているにも関わらず無視してきたものも発見できるんです。ヨーロッパ的な知性は優れたものを多く輩出したけれども、江戸以来の知性も実は相当蓄積されているんですね。それらを総合して理解していただくことで次の時代に日本人がアクションする方向性が見えてくるのではないでしょうか。(おわり)


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