明治のルイス・キャロル @ A B C

〜〜児童文学の世界〜〜


明治のルイス・キャロル@


長谷川天渓訳「鏡世界」        川戸道昭
(『翻訳と歴史』第2号、2000年9月30日刊、より)

 日本におけるルイス・キャロル(Lewis Carroll, 1832-98)の紹介の歴史は、意外に古く、今から約百年前の1899(明治
32)年にまで遡る。その年4月から12月にかけて『少年世界』に連載された「鏡世界」が、現在確認されている最初の翻
訳ということになっている。題名からも推測されるとおり『鏡の国のアリス』(Through the Looking-glass and What Alice 
Found There)のあらましを紹介したもので、紹介の労を取ったのは、自然主義の文学運動を率いたことで名高い長谷
川天渓。原作がイギリスで出版された1871年から数えると28年近くの歳月が経過していた。それに次いで古いのが、
1908(明治41)年2月に『少女の友』という雑誌に載った『不思議の国のアリス』(Alice's Adventures in Wonderland)の翻
訳。訳者は、田山花袋の『蒲団』のモデルになったといわれる永代静雄であった。こちらは原作が発表された1865年か
ら数えると、半世紀近く(43年)の歳月が経過していた。
このように原作の発表と比べて紹介が遅れたというのは、他の同時代作家の作品にも言えることで、とくにここで問題
にすることでもないように思われる。それよりも、注目しなければならないのは、その後の出版経過のほうである。キャ
ロルの作品は、一端紹介の口火が切られると、ほとんど矢継ぎ早といってもいいほどの早さで後続の作品が発表され
ていった。明治期に出版されたものだけでも、丸山英観訳『愛ちゃんの夢物語』(1909年2月)、うさぎ山人著『お正月お
伽噺』(1911年12月)と二種類の翻訳・翻案作品が発表される。一方、それと並行して、英語教育界からは、数種の対
訳や注釈が世に送られていった。早くは、1901(明治34)年6月に『英語世界』に「英国少年愛読小説/鏡世界」(原文
32ページ、注釈12ページ)が掲載されたのをはじめ、1909年10月には『英語之友』に「不可思議国探検記」(『不思議の
国のアリス』)の英和対訳の連載が開始され、翌年5月まで継続された。さらに、1911年12月には、日進堂から「初学語
学文庫第二編」として『アリス物語』が出版されるというように、読者の理解を助けるための原文付きの翻訳・注釈が発
表されていった。
このように、キャロルの作品は、日本に紹介されはじめる当初から、一方に、一般読者のための翻案・翻訳があり、他
方に英語を理解する人々のための注釈・対訳があるというように、二つの流れがたがいに補い合うかたちで出版され
ていった。原作にみられる、ほとんど翻訳不可能と思われる言葉遊びのことを考えれば、それも当然のことであったと
思われるが、そうした二つの流れがたがいに補完しあいながら世界を広げていったところに今日のアリス学の盛況が
あると考えるならば、その紹介の跡をたどるということは、単なる過去の出来事の掘り起こしということに終わらず、わ
れわれが現在取り組んでいる研究・解釈のヴァリエーションを探るということにもつながっていくはずである。
明治の人々は、フロイトの精神分析やジョイスの言語実験にも通じる現代的テーマを内包するキャロルの文学を一体
どのように受けとめていったのか。西欧のナンセンス文学が日本の土壌に根を下ろす経過をたどる上でも大変興味が
もたれる問題なので、以下、数回にわけて、明治期のキャロルの翻訳・解釈のあゆみを検証するとともに、それが生ま
れた文学的・社会的背景について考察を加えてみることにしたい。

  そこで第一回目の今回は、日本で最初のアリスの紹介となった長谷川天渓の「鏡世界」を取り上げてみることにす
る。これは、先にも記したように、巌谷小波が編集を勤めた有名な『少年世界』に、5巻9号(1899年4月15日)から5巻26
号(同年12月15日)まで、八回にわたって掲載されたものである。紹介者は明治、大正、昭和期の評論家で英文学者
の長谷川天渓(1876―1940)。東京専門学校を卒業し、『早稲田学報』や『太陽』の編集を手がけ、『文芸観』(1905)や
『自然主義』(1908)等の著書も残している。
 「鏡世界」は、初めは原作の1章を1回分として、10回ほどで終了する予定であったとみえ、原作の第1章と第1回の「鏡
の家」の内容はほぼ一致している。しかし、その原則は次第にくずれて最終回の第8回になると、原作の7章にある「ラ
イオンと一角獣」の話がごく大掴みに紹介されたただけで、主人公の「美イちやん」が突如夢から覚めて物語は打ち切
りとなる。原作八章以下11章までの内容は一切触れられずにただ省略されている。同じ雑誌の巻頭を飾る小波の「お
伽小説」とは違って、当時の少年少女にはこの「美イちやん」の夢物語は理解しがたいものだったのだろう。あるいは
訳者の天渓自身にもよくわからなかったのかも知れない。訳者・読者双方の理解不足、それが全編の紹介を待たずに
突如打ち切りとなった主な原因であったと考えられる。
 当時の人々にとって何が理解しがたかったかというと、イギリスの子どもならば誰でも知っている遊びや言葉が彼らに
はまったく分かっていなかったことである。そうした要素に物語の興味が大きく依存しているところに、その頃の人々、
いや、現代の人々にさえ、この作品を難解なものにしている大きな要因がある。たとえば、作中いたるところに登場す
るチェスの駒であるが、天渓にはこのゲームの本質がほとんど理解できていなかったのか、それを単に「自分の玩弄
物と同じやうな白や赤の王様、お妃様」と表現するにとどめている。それがために「美イちやん」の進む方向とチェス盤
の関係は一切無視されるという結果に終わってしまった。
 あるいは、言葉の問題に関しても同じことがいえるだろう。たとえば、第一章の「鏡の家」に出てくる有名な「ジャバー
ウォックの歌」について、天渓が試みている翻訳の仕方をみれば、彼の作品理解の本質は誰の目にも判然とするだろ
う。そのさわりの部分を以下に引用してみると、こんな調子の翻訳であった。
《美イちやんは見る者皆面白いものですから、独り悦びて、あちらこちらを歩いて居りますと目に入りましたは一冊の本
で御坐います。/開けて見ますと、何だか少とも解りません、美イちやんは暫らく考へて居りましたが、不図思ひ付い
て、直に本を鏡に映しました。是は鏡の中ですから、皆な左文字に成つて居るので御坐ます。/映して読んで見ます
と、是は唱歌で
     ジヤツケルロツキー
   ジヤツケルロツキー ジヤツケルロツキー
     ジャンジャン
   ジヤツケルロツキー
   荒浪立てる
   大海原を
   風に漂ふ
   木の葉の船に、
 とまでは読めましたけど、後は何だか好く解りません、美イちやんは種々に考へては読み、読んでは考へて、やつと、
ジヤツケルローといふ兒が、ジャブジャブといふ恐ろしいお化を退治したと言だけが解ましたが、一枚はぐりますと、茲
には、絵が入て居りました。本誌に載て有ますのが、其絵で、是はイちやんが憶持てゝ書たのです。》
 美イちゃんが「唱歌」と理解したこの「ジヤツケルロツキー〔ジャバーウォック〕」の歌は、文学の技法上からいうと、ジェ
イムズ・ジョイスの『ユリシーズ』や『フィネガンズ・ウェイク』にも通じる言語の実験を伴うものであった。アリスが作品中
ほどの第六章で出会うハンプティ・ダンプティの表現を借りれば、その歌には「二つの意味が一つの語のなかに詰め込
まれている」、いわゆるカバン語が多発する。しかし、天渓はそこに何ら意味の多重性を見いだせないまま、「荒浪立て
る/大海原を/風に漂ふ/木の葉の船に」と、いたって表層的な解釈に終わらせてしまった。その結果、第六章に至
って展開されるはずのハンプティ・ダンプティのジャバーウォックの歌をめぐる独自の解釈――それについてはかのシ
ューレアリスト、アントナン・アルトーが残した「精神分裂病者」的翻訳が有名――は、まったく意味を失い、この作品を
して単なる小波の『こがね丸』や「新八犬伝」と変わらない〈おとぎ話〉のレヴェルにまで落としてしまっているのである。
 要するに天渓には、キャロルのナンセンス文学の意味がまったく理解できていなかった。ウィリアム・エンプソンが指
摘するような、作品の背後に潜む精神分析的な意味に思いが及ばなかったのは致しかたないとしても、E・シューエル
が言うように「およそ統合力のあるものはすべて『ノンセンス』の大敵であって、どんな犠牲を払っても排除すべきであ
る」(E・シューエル/柴田稔彦訳「ノンセンス詩人としてのキャロルとエリオット」『別冊 現代詩手帖』第2号、1972年6
月)ということには直観的に気づいてもよかったと思う。しかし、天渓は、作者の意図するところとは逆に、「材料を分解
してばらばら」(同上)にする方向ではなく、それを「統合」して話の筋道をつける方向に進んでいったがために、ナンセ
ンスの意味が失われて普通のおとぎ話と何ら変わりのないものになってしまった。天渓がこの物語の副題を「西洋お伽
噺」としているのはそうした作品理解の本質を示す一つの証拠といえるだろう。結局、天渓は、幼い少女が遊びに疲れ
て眠りに陥り、鏡の世界に彷徨するといった物語の表面的な趣向に興味を覚えその紹介の筆を執ったものの、物語の
背後に存在する数々の言語的、文学的遊戯については、最後まで意味を見出だせずじまいであったというのが実状で
あろう。
そうした中でただ一つ原作の香りを伝えてあまりあるものがあるとすれば、それは作中随所に挿入された挿絵である。
たとえば、「第一回 鏡の家」を例にとると、そこには毛糸球にじゃれる黒猫の絵にはじまって、牙をあらわにした怪獣ジ
ャバーウォックの絵にいたるまで、合計7葉の木版画が挿入されている。原作と比べて欠けているのは、アリスが鏡の
世界へ赴く際にマントルピースの上にのぼって片膝ついている裏表一対の挿絵のうち、顔を向こうに向けているほうの
絵一枚だけで、あとはすべて原作通りのものが挿入されている。もちろん原作のジョン・テニエル(John Tenniel, 1820-
1914)の挿絵と比べると粗さは目立つが、その粗さは第6回のハンプティ・ダンプティの挿絵にいたって、ほとんど原作と
見分けがつかないというところまで克服される。そうした変化の背景には、当初木版画として描かれたものが、よりきめ
の細かい銅版画(あるいは西洋木版画?)の挿絵に変えられたことがあった。たとえば、有名なハンプティ・ダンプティ
が塀の上に腰かけて後ろ向きのアリスに手を差し出している場面の挿絵をみてもわかるように、それは現在われわれ
が夥しい数の翻訳本や解説書で目にするのとほとんど変わらない精巧な挿絵である。日本の少年少女は、明治32年と
いう段階から、すでにこの世界の児童文学ファンにお馴染みの挿絵に触れることができたのである。おそらくそれは、
天渓の文章が伝えそこねたあるものを、明治の子どもたちの胸に注ぎ込むのに充分なものであったと思われる。少なく
とも、その挿絵が醸し出す独自の雰囲気に関するかぎり、明治の少年少女は世界の少年少女が味わっているのと同じ
雰囲気を共有することができたのである。



〜「明治のルイス・キャロル A」へ続く〜



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