日露戦争100年

 榊原貴教 作成

@日露戦争100年、軍隊創設130年を考える資料集

〜〜マイクロフィルム資料〜〜

  「近代日本軍隊関係雑誌集成」
  「偕行社記事」 「水交社記事」 を柱として 陸海軍将校が編集・執筆した数多の雑誌 集成

第1期 創成期から北清事変前後
   (軍隊形成が日本人の自己意識形成に大きな役割を果たしていった時期)
   マイクロフィルム版52リール  本体価格 702,000円+税

第2期 近代軍隊興隆期(日露戦争〜第一次大戦前)
   (国民意識の確立による下支えが軍隊の興隆を築いていく時期)
   マイクロフィルム版45リール 本体価格 585,000円+税

第3期 近代軍隊成熟期(第一次大戦〜昭和初期)
   (国家の命運に繋ぎとめられていく国民と将校の国家総動員研究の時期)
   マイクロフィルム版57リール 本体価格 766,000円+税

第4期 戦争の時代(満洲事変〜第二次大戦)
   (国家と国民が一体化する軍事国家が専横する時期)
   マイクロフィルム版72リール 本体価格 972,000円+税

第5期 海軍の部(海軍確立期〜第二次大戦)
   (帝国海軍の創設から終焉までを俯瞰する海軍将校の機関誌集成)
   マイクロフィルム版83リール 本体価格 1,162,000円+税

 問合せ・注文は、ナダ出版センターにて受け 付けております。
   →詳細はマイクロフィルム版のページ


日露戦争とは、日本の世界史的立場を大きく変えた戦争であると同時に、事件であった。
武士が武士道を確立させたと同じ意味で、徴兵制による近代軍隊は日本人の心性を形成してき た。
軍隊、工場、学校が「近代人」を育成する装置であったと近年の研究成果は証明してきたが、
帝国憲法下にあってその先導をなしてきたのは、まぎれもなく軍隊であった。
明治38年9月の東京日比谷の講和反対国民会議は、戦争への異議申し立てではなく、
戦争による獲得利権の少なさへの不満であった。
国家利権を主張する近代人の日本における誕生を知らせる事件であった。

日露戦争後に顕在化した心性は、今日においても日本人の中で生きている。
イラク戦争への日本の関与は「人道支援」を全面に出してはいるが、
その目的は中東における日本の石油利権の確保であることは識者の常識となっている。
このエネルギー資源の恩恵を受けて生きざるをえない日本人は、
為政者の唱道する「人道支援」の名目を拒否できない生活を余儀なくさせられている。
国民は国家と深く結びつけられてきたのが近代であった。
その形成過程が明治という時代であり、日露戦争はその仕上げとなった事件でなった。

日露戦争研究を単に「100年祭」として終らないように、
軍隊研究ならびに日露戦争研究を日常性の問題として深めていくことが重要となっている。


本集成を活用した研究
大江志乃夫氏の軍隊研究の諸著作
広田照幸著『陸軍将校の社会教育史――立身出世と天皇制』(世織書房)ほか多数


本集成解説/資料
「新兵にみる日本の近代」(兵卒の質、農漁村の日常、教育論争、「兵家徳行」の位置)
「明治40年代の国民と将校」(近代社会のきしみ、国民意識の深層、陸軍将校と西欧文化)
「大正昭和期の国民意識と将校」(大正期の国民と将校、将校と大正デモクラシー、語学に対 する意識の変容、国家総動員)
「科学技術と海軍将校」(イギリス人将校の見た日本の召集兵、水交社社員が求めた普遍的原 理、科学技術への懐疑)
資料「日露戦争関係執筆者別索引」「日露戦争関係文献目録」「国家総動員関係記事一覧」「 青少年訓練参考・学校青訓細目」「描かれた明治天皇」「戦争と美術」ほか


A近代日本社会史【軍隊関係】年表


本年表は、「近代日本軍隊関係雑誌集成」収録の当時の陸軍将校たちが編集した雑誌をベース にして作成したものです。
なお、日露戦争関係文献目録は、『近代日本軍隊関 係雑誌集成 目録V・W』を参照下さい。
  (作成 ナダ出版センター・榊原貴教)

明治6年1月10日 徴兵令公布
徴兵制度はフランス革命に起源を発し、国民国家を維持しようとする国民の祖国愛と義務感に 基礎を置いた制度であった。しかしながら、明治初期日本人は、いまだ維持すべき国家を明確 にできぬままに徴兵のみ先に制度化され、困難な国家形成と国民形成に立ち向かっていくこと になる。

明治9年3月12日 『内外兵事新聞』創刊

明治9年10月24日 旧熊本藩士、熊本鎮台を襲う(神風連の乱)
〈『内外兵事新聞』34号付録で熊本県士族暴動記事を特集〉

明治9年10月27日 旧秋月藩士、神風連に呼応して挙兵(秋月の乱)

明治9年10月28日 山口県士族前原一誠ら400余人、県庁襲撃を計画し鎮圧される(萩の乱)
〈『内外兵事新聞』35号付録で前原党鎮定の概略を特集。この年、同紙に萩の乱の続報、茨城 県農民暴動・三重県豊原村の暴動の報続く〉
この年、『内外兵事新聞』は、勤務・休暇規定、諸官庁文書上申規則、旅費規定、服制改正、 徴兵令・徴兵令参考改正、陸軍恩給令制定等の報道掲載。

明治10年1月30日 鹿児島私学校生徒決起、2月15日西郷隆盛を擁して挙兵(西南戦争)

明治10年2月15日 偕行社の開社式を九段坂上にて施行
〈『内外兵事新聞』は開業の広告、仮規則、設立大旨の報道を載せ、また開社式の模様は3号 続けて詳報する〉

明治10年2月27日 『内外兵事新聞』、西南戦争報道の号外を発行、3月1日より体裁を一枚 刷りに改め、週間を隔日刊にすると広告〉

明治11年3月24日 「偕行社雑録」(『内外兵事新聞』136号)
〈去ル十九日(火曜日)燕喜会ハ客員西周君参席シテ前会兵家徳行ノ続陸軍風習ノ事ヲ演説セ ラレ次ニ大久保君遠足行軍法ヲ改良スヘキ論ヲ述ヘラレタリ〉(燕喜会は偕行社内の社の一つ )
偕行社仮規則第21条に「社員軍事ノ建議論説并ニ発明等アルトキハ兵事新聞ニ記載シ以テ之ヲ 世ニ公ニスルコトアリ」と謳ったのに従い、ほぼ毎号のように偕行社の記事と燕喜会の演説を 掲載するようになる。『内外兵事新聞』12年6月15日号には「偕行社ノ規則改定」が載り、改 定24条は「社員軍事ノ建議論説并ニ発明等アルトキハ偕行社雑誌若クハ兵事新聞ニ記載シ以テ 之ヲ世ニ公ニスルコトアリ」但シ此雑誌ヲ編輯スルトキハ無代価ニテ社員ニ頒布スルヲ例トス 」とあり、独自の発表機関を持つ意欲を見せている。しかし、15・16年頃になると掲載記事も 少なくなり、騎兵科は集会も開かれなくなった模様である。射的会のみ盛況を呈し、しばしば 大きく記事としてに取り上げられる。

明治11年5月5日 「軍人結婚論」(小沢武雄、『内外兵事新聞』142号)
〈昨年凱旋ノ日ヨリシテ将校以下結婚ノ許可ヲ出願スルモノ続々トシテ絶エズ 実ニ驚クヘキ ノ数ニ至レリ〉 204号(12年7月13日) に「陸軍軍人結婚ニ関スル通達」掲載

明治11年5月14日 参議兼内務卿大久保利通、暗殺される。

明治11年10月12日 陸軍卿山県有朋、8月に達示した「軍人訓戒」(西周起草)を中隊に一部 ずつ配布する旨通達

明治11年11月1日 陸軍省、近衛・各鎭台・教導団に「東京日日新聞」「郵便報知新聞」「内 外兵事新聞」の購読を命ずる

明治13年1月10日 陸軍に電信隊を設置

明治14年10月12日 国会開設の詔勅

明治15年1月4日 軍人勅諭頒布

明治15年8月27日 「広告」(『内外兵事新聞』367号)
〈姫路山陽博交社仙台一志社名古屋柳城社金沢金城社熊本有終社小倉僉同社今般本社へ合併  (姫路)(仙台)(名古屋)(金沢)(熊本)(小倉)偕行社ト改称セリ〉

明治16年1月7日 「下士ノ待遇スル制度ノ変更ヲ望ム」(秋庭守信、『内外兵事新聞』386号 )
〈社会形状ノ終始変動底止スル所ナキヲ知ラハ我軍隊ノ制度モ恒ニ釐革シテ必ス之ト駢馳セサ ル可ラサルヲ知ラン 夫レ然リ彼ノ汽車汽舶ヲ視スヤ 炭ヲ投シ油ヲ鑵キ絶ヘス汽鑵ノ蒸騰ヲ 調準セサレハ駛進ノ望ミ難キノミナラス転没ノ禍踵ヲ施サヽル也〉
滔々と押し寄せる西欧の科学技術、それに伴って変容し続ける社会は、時代を生きていく人々 の現実認識を大きく変えていった。秋庭の眼に映ずる軍隊は、そして恐らく国家も、変容しつ づけるものであったろう。そうした認識が再び変化していくのは、恐らく日清・日露の戦争の 過程で起こっていったものと思われる。

明治16年1月10日 内務省戸籍局、人口3670余万人と発表(15年1月1日調べ)

明治16年2月15日 東京電燈会社設立免許(19年7月5日開業)

明治16年4月22日 「本年ノ徴兵応徴者頗ル多シ」(『内外兵事新聞』401号)
15年の記事を見ていると陸軍囚獄所脱走者の達がしばしば見られたが、16年になると徴兵およ び水兵応募者が急増し、各地人民の軍隊感情の好転が報道され、12月には、近衛砲兵大隊の女 化原大砲射的演習に毎日一万から三万の人民が相集まり縦覧したという珍事まで報じている。 水兵については「海岸地方ノ人民家族の扶助料アルヲ以テ」増したと記し、この頃陸海軍は給 与概則も含め条例規則の改正・施行を次々と行ない、制度の整備に向かっていることを新聞は 伝えている。

明治18年12月22月 内閣制度創設。第一次伊藤博文内閣成立。

明治21年1月31日 『月曜会記事』創刊

明治21年7月29日 『偕行社記事』創刊
〈各将校其本分ノ研究ヲ為スニ……従来省部ニ於テ購読スル所ノ外国雑誌新聞ハ勿論 公使館 其他ヨリ時々送付スル新着ノ書籍等ニシテ其中ニハ軍事上ニ有益ナルモノ数多アリ〉(旨趣書 )との認識によって、翻訳外国軍事情報誌として刊行される。

明治21年12月24日 将校分限令制定
この年、『偕行社記事』は「仏国会計法」(23年まで連載)「軍制ノ原理ヲ論ス」(26年まで 連載)「陸軍治罪法釈義総論」など掲載。

明治22年1月20日 『保守新論』創刊
〈是によれは。総て文官に専任したる将校の位置は予備若くは後備の籍に属することゝなりた るか故に。余輩は此等の将校か自今自由に政治を談論講義するの余地を得られたるを賀し〉( 創刊号記事「陸海軍将校分限令」)将校を中心とする保守政党の機関紙として発足。

明治22年1月21日 徴兵令改正布告。満16〜40歳までの男子は兵役に服する義務があるとし、 兵役は常備兵役、国民兵役に分け、常備兵役は現役・予後備に分ける。

明治22年2月11月 大日本帝国憲法発布。同日、皇室典範制定(国民に公布されず)。

明治9年10年の内乱以降も、政治的には条約改正の交渉失敗・自由民権運動の高揚とその抑圧 、社会的にはインフレ・飢饉・農民の暴動などが発生し、為政者もその批判者も一つ一つの対 応に右往左往していたのが実情だった。統一の国家意識はまだ形成されておらず、大日本帝国 憲法の発布は明治政府にとって一つの賭であったことは間違いない。

明治22年2月21日 『月曜会解散広告』出る。―〈別紙之通リ陸軍大臣閣下ヨリ御内諭有之候 ニ付キ茲ニ本会ヲ解散ス〉

明治22年5月20日 「忠君愛国の諸君に告く」(『保守新論』社説)
〈諸君よ 今日以往の立憲制は理論の正邪之が勝敗を為すに非ずして国民多数の意志希望実に 之が判決を為すなり 仮令我が神聖なる天皇陛下と雖も叡慮の侭に裁制し給ふこと能はす 政 府の威力も之を抑圧すること能ざるなり されば多数の国民にして内外本末を顛倒し大義名分 を抹殺すること今日異学異教の輩の執る所の如くならしめば万国無比の国体は何の世界に立た んとする乎〉

明治23年3月15日 横須賀造船所にて「八重山」竣工、国内で建造された初の鋼鉄製軍艦。

明治23年4月20日 「目下の大厄」(『保守新論』投書)
〈政治の改革は。最早整理の途に就き。組織既に成れり。然れども彼の恐るべき大厄は。日々 益々其萌芽を長し。忽然一発。社会の秩序を撹乱し。国家の基礎を破壊せんとするの勢あり。 吾人豈に之に応するの計無くして可ならんや。何をか大厄といふ。曰く貧富の競争是なり〉

明治23年6月20日 富山県伏木で米騒動本格化、秋田県土崎港・柏崎・佐渡相川・福井県武生 などでも貧窮民蜂起して、各地で軍隊出動。

明治23年7月1日 第一回衆議院議員選挙実施
(人口40,072,020 有権者453,474 人口比1.1%)

明治23年7月20日 「我党諸君に告ぐ」(『保守新論』社説)
〈議員選挙既に畢れり。其の当選者を数ふれば。何ぞ其れ自由改進の党に多くして。我党に落 莫たるや〉

明治23年10月30日 教育勅語発布
この年、『偕行社記事』は「労働ノ景況ニ由リ食物ヲ増加スルノ必要ヲ論ス」(田中弥太郎) 「児玉少将新兵教育ニ付テノ談話」「独逸将校学科教習法」「電気燈ノ採用ヲ望ム」「支那ノ 国境」などを掲載。

明治25年1月5日 「時弊矯正之基」(井口省吾訳、『偕行社記事』76号付録)
〈艱難辛苦ヲ以テ終ニ再興シタル独逸国公同ノ民心ハ動モスレハ傲慢心ト驕奢心トニ陥ラント シ其獲収シタル一致ト地位トハ妄ニ名声ヲ誇言シ他国ヲ脅嚇シ蔑視スルノ資ト為リ捷戦ノ栄名 ニ眩迷シテ平和ノ福祉ヲ忘却シ刀劔ノ為メニ耒耜ヲ放擲シ兵器改良ノ為メニ学術技芸ヲ忽諸シ 其極終ニ独逸国民ハ古来平和ノ国民ニシテ彼ノ仏国ニ反シ考士詩客学者トシテ平和開明ノ勝利 ヲ以テ常ニ最大ノ名誉ト為シタルコトヲ忘却セントス〉

明治25年2月15日 第2回衆議院議員選挙実施。政府、内相品川弥二郎、地方官に選挙干渉を 命令。

明治25年10月1日 陸軍中将川上操六を議長とする鉄道会議設立。

明治27年7月25日 日清戦争勃発
この年、『偕行社記事』9月号で休刊(29年3月に復刊)

明治28年4月23日 ドイツ・ロシア・フランス三国、遼東半島の還付を勧告(三国干渉)

明治30年1月 「仏国ノ軍用電信」(参謀本部訳、『偕行社記事』161号)
〈抑モ第十九世紀ノ終期ハ百般ノ事業ニ於テ其効用ヲ完全ナラシメンカ為メ大ニ離中分立ノ勢 ヲ成シ分業ノ法殆ト其盛ヲ極メントス 然ルニ独リ陸軍ニ於テノミ猶ホ万能隊ヲ存置シ之ヲシ テ凡百技術上ノ勤務ヲ全フセシメントスルモ得ヘケンヤ 若シ強ヒテ時勢ニ抗シ這般ノ劣策ヲ 固守スルニ於テハ其結果有為ノ技術兵ヲ得ルコト能ハスシテ独リ木偶ノ手裡ニ存スルヲ発見ス ヘキノミ 彼鉄道隊ニ関シテ夙ニ此問題ヲ解釈シ了セルハ我人ノ満足スル所ナリ〉

明治30年3月 「社会ニ関スル将校ノ義務ニ就テ」(堀内文吉郎訳、『偕行社記事』165号)
〈仏人ハ比較的富裕ナリ 此富裕ノ結果トシテ我国民ノ忠誠ノ精神ハ磨滅セリ 即チ此悪ムヘ キ「不忠誠」ハ富裕テウ吉事ヨリ生レタルモノナリ 視ヨ今日ノ農民スラ其豊富ナルト土地肥 沃ナルトニ依ツテ安楽ナル生活ヲ送ルニ慣レ規律厳正起居意ノ如クナラサル軍人生活ヲ好マサ ルニ至リ其当サニ本国ニ尽クスヘキ兵役義務ヲ忌避シ本国ヲ防カンカ為メ入営セントスルノ日 ニモ尚ホ自己ノ所有地ヲ愛恋シ回顧流涕去ルニ忍ヒサルノ醜状ヲ現ハシ報恩愛国等ノ語ヲ聞ク モ馬耳ノ東風毫モ彼等ニ感セサルナリ〉
『偕行社記事』161号と165号の記事は、翻訳でありながら日清戦争後の日本の軍隊が直面した 二つの問題を浮き上がらせている。一つは科学技術の進歩が否応なく要求してくる軍隊の専門 化・分業化、一つは統一の国家意識がいまだ形成できないにもかかわらず、要求される「忠誠 」の問題であった。明治30年以降の日本軍隊の将校たちの関心もこの二点に向いていった。そ してまた、科学技術の関心と国家秩序の意識が緊張感をもって均衡を保っていた時代でもあっ た。『偕行社記事』『水交社記事』はそのことを伝える稀有な近代日本思想史の資料でもある 。
この年、『偕行社記事』に、「軍事科学及軍事工業ニ関スル最近ノ発明概要」(独ヘルゲルト 稿)「軍用自転車ニ就テ」(堀内文次郎)「電写機Telautograph」(工兵会議)「戦時ニ於ケ ル望遠鏡ノ効用」(参謀本部訳)「無線電信ニ就テ」(本社訳)「仏国鉄道ト動員トノ関係」 (本社訳)など掲載。

明治31年1月20日 元帥府設置の勅語、彰仁親王・山県有朋・大山巌・西郷従道らが元帥の称 号を受け、軍事の最高顧問となる

明治33年2月20日 「軍紀の標本」(佐藤銅次郎、『偕行社記事』236号)
〈所謂軍紀ナル無形名詞ノ其初欧洲ヨリ来リタルヤ争フ可ラサル事ナリ疇昔ノ我軍豈軍紀ナカ ランヤ 然レトモ所謂軍紀ハ欧洲ノ軍紀ト其趣ヲ異ニスル者アリ 抑 何ヲカ所謂軍紀ト云フ 乎 之ヲ欧洲ニ於ケル実例ニ徴シテ考究スルハ徒ラニ自分勝手ノ定義ヲ立ツルヨリモ必要ナリ ト信ス〉

明治33年5月19日 陸軍省に総務・人事・軍務・経理・医務・法務の六局を置く

明治34年11月20日 「独逸軍隊ノ精練ナル所以」(大庭二郎、『偕行社記事』278号)
〈明治二十八年十二月二郎ハ独逸国駐在ノ命ヲ蒙ムリ同二十九年二月本国ヲ出発シ欧州行ノ途 ニ上レリ……九カ月伯林ニ語学ヲ修メシ間ニ二郎ハ独逸人ト交際シ日本ノ勝利ヲ見ル二郎カ自 ラ尊ム如ク大ナラサルヲ感ジタリ 世界列強ノ仲間入リハ吾法人ノ自ラ許ス所ナレトモ少モ独 逸ノ士人ハ吾日本ヲ以テ世界ノ一等国トハ見做サヽルヲ憤慨セリ……独逸国民ハ頗ル秩序ヲ重 ンス 長上ヲ敬シ之ニ服従スルハ一般国民ノ風タリ 是レ軍隊内ニ長官ノ命令容易ニ実行サル ヽノ一大原因ナラン〉

明治35年1月20日 「兵語解釈の一定」(参謀本部総務部、『偕行社記事』281号)
〈近来兵語ノ用ヒ方漸次濫雑ニ赴キ各兵科ノ著書及翻訳書中種々異様ノ兵語錯出シ殆ント人ヲ シテ適従スル所ヲ知ラサシム 是レ我邦今日ノ兵語ハ概ネ之ヲ欧州諸強国ノ兵書ヨリ採ルモノ ニシテ訳読者解釈ノ異ナルヨノ已ムヲ得サルモノ有リト雖トモ其結果遂ニ或ハ軍制ノ統一ヲ欠 クノ弊アラントスルニ近キハ亦深ク戒メサル可ラス〉
『偕行社記事』281号に記事刷新の趣旨が掲載され、構成を1広報、2論説、3叙事、4翻訳、 5内事、6外事、7史伝、8問答、9雑録・10外国語、11紹介、としたが「此部(2論説)及 第四ノ翻訳ヲ以テ最モ此記事ノ重キヲ置ク所トス」とある。しかし論説にはなお翻訳が多い紙 面を見ると、陸軍将校たちの模範は依然として西欧列強にあり、明治後期から大正期に至って 提起されてくる〈軍隊と国民の関係〉もその模範の枠内で、ある時期まで模索していくことに なる。近代日本の政治思想史を考察するとき、このことは無視できない。

明治35年1月24日 青森歩兵聨隊、八甲田山に雪中行軍

明治35年1月30日 日英同盟、ロンドンにて締結

明治35年5月5日 「外国語ノ奨励」(T・M生、『偕行社記事』289号)
〈曰ク外国語学ノ奨励。是レ近頃ノ与論デ、殊ニ我陸軍現時ノ流行トモ謂フベキ状態デアル〉
「外国語」欄の新設は「今後ノ時勢ハ外国語ニ通スルコト極メテ必要ナリ」との認識によるも のであった。その結果、英仏独露の四カ国語学習のページが設けられた。大杉栄が『自叙伝』 の中で陸軍将校であった父が32年頃新発田の片田舎でロシア語学習に励んでいたことを記して いるが、それはこうした陸軍の雰囲気を伝える一駒といえよう。

明治37年1月5日 軍事事項の新聞雑誌への掲載禁止

明治37年2月10日 ロシアに対し宣戦の詔勅
この年、『偕行社記事』4月号で休刊(39年4月復刊)

明治37年11月11日 『偕行社記事』臨時号創刊(39年3月に30号で終刊)

明治38年9月5日 日露講和条約調印(ポーツマス条約)、同日、東京日比谷で開催中の講和 反対国民大会が焼打ち事件にまで発展、軍隊出動

明治39年3月31日 鉄道国有法公布(10月1日施行)

明治39年5月25日 「セワストポリニ於ケル惨事」(『偕行社記事』340号)
〈10月18日(露暦)セワストポリ防禦紀念博物館並ニ監獄署門前ニ起リタル悲惨ナル事件ニ関 シ当局者ニ対スル非難攻撃ハ10月19日(露暦)午前11時ヲ以テ開カレタル臨時市会ニ於テ甚タ 劇烈ヲ極メタリ〉この記事は五カ月遅れの『彼得堡新報』の翻訳であるが、外事欄としては異 例の11ページに及ぶ報道である。

明治41年7月22日 陸軍省および技術審査部職員により初めて軍用自動車(フランス製)の長 途野外試験が行なわれる

明治42年10月11日 持株会社の三井合名会社を創立(44年、三井コンツェルンの成立。三菱は 45年にコンツェルン形態を実現)

明治43年6月20日 最近独逸ニ於ケル無線電磁通信ノ発達(勝野正魚、『偕行社記事』413号付 録)
〈小官ノ独逸国駐在ノ約半期伯林大学在学中恰モ電磁波ニ関スル諸種ノ物理的研究ニ最モ利便 ナル時期ニ遭遇セシヲてテ此ノ研究ノ傍ラ其ノ応用ニ関スル無線電磁通信技術ノ聴講ヲ為シ独 逸国ニ於ケル其ノ現況ノ大要ヲ斯界ノ泰斗Slaby氏ニ就キ知ルヲ得タルヲ以テ敢テ不才ヲ顧ミス 其ノ概要ヲ講演セン〉

明治43年7月9日 「兵卒ヲシテ在営年間華美ナル都会生活ノ悪風ニ感染セシメサル方法」(萩 原吉五郎、『偕行社記事』414号)
この頃ようやく論説欄も翻訳ではなく、将校の論稿が増えてきているが、その多くは懸賞論文 の応募作である。萩原歩兵中尉のも、第17回懸賞論文の題目である。同じ題目の論稿は417号 418号にもある。その後の題目を見ると、18回「行軍及戦闘間ニ於ケル指揮官ト軍隊並軍隊相互 ノ聯絡法ヲ詳論スヘシ」「健全完美ナル将校団ハ如何ニシテ組成スヘキヤ」、19回「山地防禦 ヲ詳論スヘシ」「在隊間ニ於ケル士官候補生ノ訓育方法」、20回「攻撃精神ノ養成方法」「我 国ニ於ケル社会ノ趨勢ニ対シ吾人将校ハ如何ナル覚悟ヲ要スルヤヲ詳論スヘシ」、21回「突撃 戦闘論」「己ノ理想スル青年将校」というごとく一つは軍事、もう一つは将校と社会のテーマ に目を向けさせている。恐らく、このような訓練を経て、将校たちの意識は大正から昭和期に かけての国民教育の問題、国家・の問題へと向けられていったに違いない。そして、この意識 圏は陸軍将校たちから国民へと拡大していくこととなる。

明治43年9月30日 朝鮮総督府官制発布

明治43年11月3日 帝国在郷軍人会、偕行社で発会式

明治43年12月19日 日野熊蔵・徳川好敏両大尉、代々木練兵場でわが国最初の飛行を行う
この年、「列国軽気球ノ現況」「写真測量」「空中ニ於ケル撮影術」「仏国ニ於ケル電信」「 軍隊衛生学上ヨリ観タル飛行機ノ研究」「飛行機ニ依ルマンシュ海峡ノ横断」「太平洋ニ於ケ ル米国ノ戦略」など掲載

明治44年2月13日 藤沢元造、国定歴史教科書問題につき質問書を提出(南北朝正閨問題)

明治44年8月20日 軍隊教育ト国民教育トノ関係(本山薫、『偕行社記事』431号)

明治44年9月20日 地方ト軍隊トノ関係ニ就テ(田中義一、『偕行社記事』432号付録)
〈実ハ是マデ地方ト軍隊トノ関係ガ兎角疎遠ガチニナッテ、恰モ地方ト軍隊トノ間ニ一ツノ大 ナル障壁ガ設ケテアルカノ如ク、相互ノ間ニ於テ意志ノ疎通ヲ欠イテ居ッタト云フコトハ、事 実上争ハレヌコトト私共ハ思ッテ居リマス〉
39年の講和反対の騒擾、40年の足尾銅山・別子銅山の暴動、41年の増税反対運動、赤旗事件、 42年の日糖事件暴露などによる政治不信、こうした社会的背景に対し、将校たちの関心も「国 民教育」とそれに直結する「軍隊教育」へと向けられていく。田中義一のは陸軍省軍務局長と しての談話であり、本山歩兵大尉のは懸賞応募論文である。このテーマはその後も、435号「軍 隊農事講習第一回講習証書授与式ノ告辞(松川少将)」440号「社会ノ趨勢ト佐倉聯隊区管内各 地方の状況並其ノ人情風俗ヲ考慮シ之ニ適応スル精神教育ノ方法手段」443号「中隊ノ家庭教育 ハ如何ナル方法手段ニ依リテ完全ヲ期シ得ヘキヤ」443号付録「軍隊教育ニ関スル研究」などと 続く。そして大正期に入ると、参考資料として別冊付録に将校以外の論文が転載されるように なる。穂積八束「国体ノ異説ト人心ノ傾向」「憲法制定ノ由来」土方伯爵「明治天皇陛下ノ御 聖徳」村上専精「国民道徳ノ基礎」上杉慎吉「国体ト憲法ノ運用」田中豊「国民ノ現状ヲ述ヘ テ精神教育ノ急務ナルヲ論ス」。これらはあくまで参考資料であったが、将校たちの意識が明 治期の至上命令であった「強兵」から、「国家」と「国民」へと注がれ始めたことは確かであ る。

大正元年11月25日 海軍予備役機関少佐磯部鉄吉、日本航空協会を創設

大正元年12月19日 第一回憲政擁護連合大会を東京で開催(第一次護憲運動始まる)

大正2年2月6日 軍隊教育令公布

大正2年12月20日 軍国民トシテノ露国民(無署名、『偕行社記事』471号付録)
〈戦争カ全国民ノ負担タル可キ現今ノ戦争ニ於テ国民ノ団結カ至大ノ影響ヲ有スルコトハ又論 ヲ俟タス 而シテ逐次領土拡張ニ依リ多数ノ異種民族ヲ包容スル邦国ノ団結力カ単一ナル民族 ニ成リ而カモ古キ歴史ヲ有スル国ニ比シテ著大ノ懸隔アルハ争フ可カラス〉
67ページにわたるこの論文は征服・領土の合併によるロシアの異民族包容が軍隊秩序を乱して いることを詳説し、日本における台湾人の扱いに及んでいる。ここでは、差別の問題が国家的 ・民族的な目的達成という意識から発生している。

大正3年7月 「真理上ヨリ人間ト軍人ノ本分並我ガ国体ヲ論ス」(多賀宗之、『偕行社記事 』480号)
〈咋今ノ如ク不健全ナル思想ヲ以テ国民道徳上ニ皮相ノ謬見ヲ持シ或ハ洋化思想ヲ本トシテ邪 説ヲ弄フノ輩ヲ生シ之ニ盲賛雷同スル者アラントスル傾アルニ至リシハ洵ニ国家将来ノ不祥事 ナリ……此ノ際吾人将校ハ毅然トシテ国民精神ノ中堅タル信念ヲ一貫シテ四周ニ感化ヲ及ホシ 誤マレル逆流ニ抗スルハ自ラ備ハレル責任ナリ〉
明治期の将校との意識の違いがこの論文に截然と現われている。明治45年3月20日号の小原歩 兵大尉「社会ノ趨勢ト……」は「近時物質的文明ハ長足ノ進歩ヲ為スニ反シ精神的価値ハ愈々 低下シ我カ国特有ノ国情ヲ忘レントスル者ノ繁殖シタルコトヲ悲マスンハアラス」と述べる。 この論文で国民と軍隊との関係において一方の優位性はまだ主張されておらず、かつ西欧化と 国民精神の相関関係を内省的に受とめようとしている。しかし、多賀歩兵大佐の論調は軍隊の 国民に対する優位を打ち出そうとしている。明らかに時代は変わりつつある。

大正3年7月28日 オーストリア、セルビアに宣戦布告(第一次世界大戦始まる)

大正3年8月23日 対独宣戦布告

大正3年9月   『偕行社記事』臨時増刊創刊

大正4年12月   陸軍航空大隊を所沢に新設

大正5年4月1日 横須賀海軍航空隊を新設

大正6年3月12日 ペトログラードに労兵ソビエト組織成立、15日リヴォフ公首班の臨時革命 政府成立(ロシア二月革命)

大正6年6月 露国革命所感(田中義一、『偕行社記事』515号)
〈今次露国ニ突発シタル革命ハ晴天ノ霹靂ノ如ク世ヲ震該セシメ急転直下局面ノ帰著スル処今 遽ニ予想スル能ハス 革命カ此ノ如ク容易ニ行ハレタルハ吾人ノ頗ル意外トスル所ニシテ殊ニ 軍隊カ革命ニ左袒シ甚タシキハ近衛兵カ戈ヲ逆ニシテ皇帝ニ反抗スルカ如キ露軍建成ト歴史ト 其ノ皇帝ニ忠実ナリシ平時ノ情態ニ顧ミレハ誠ニ驚異ニ堪ヘサル所ナリトス〉
この文に続いて、革命の原因についての自問自答が始まる。しかし、思索は一つとして正鵠を 得るに至らない。このときの田中義一の脳裏には近衛兵について、軍隊について、そして国家 について、目まぐるしいほどの思いが駆け巡ったことであろう。陸軍将校にとって、国民と国 家のテーマは新しい時代を迎えようとしている。

大正8年6月28日 ベルサイユ講和条約調印
(2004年6月 増補訂正)

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