『児童文学翻訳作品総覧』 第7巻 アメリカ・その他編より

  

明治のマザーグース
  ―英語リーダーを仲立ちとするその受容の全容―


                         川戸 道昭



 イギリスやアメリカにおいて古くから親しまれてきたマザーグース(伝承童謡)が、日本にはじめて紹介されるのは一体いつ頃のことだろう。その時期は、北原白秋や西條八十が、『赤い鳥』(鈴木三重吉の主宰する雑誌)に童謡を掲載する大正中頃のことか。あるいは、もう少し古く、竹久夢二が西洋の詩を織り込んだ著作を発表しはじめる明治末年のことか。その紹介の起源を確かめたくて、最近話題になった鷲津名都江氏の『マザーグースと日本人』(注1)という書物にあたってみると、その時期は、さらにさかのぼって、今から一一〇年以上も前の一八九二(明治二五)年のことであったとある。その年五月に出版された『幼稚園唱歌』(注2)(エ・エル・ハウ著、今村謙吉発行)のなかに、「きらきら」(「キラキラ星」)と「我小猫を愛す」(“I love little pussy”ではじまる詩)等が掲載されているのが、マザーグース紹介のはじまりであったと記されている。
 この紹介の時期を、アンデルセンやグリムなどの西洋童話が日本にはじめて紹介される時期と比べてみた場合、どういうことがいえるのか。時期的にみて、それは早いのか、遅いのか。そのことをアンデルセンの翻訳を例に考えてみると、これまでに見つかっているアンデルセンの翻訳で最も古いものは一八八六(明治一九)年二月に出版された「マッチ売りの少女」(注3)の翻訳ということだから、マザーグースの翻訳はだいたいそれより五、六年遅れということになる。時期的にはそれで矛盾はないように思われるのだが、長年、アンデルセンやグリムなどの西洋童話の受容史研究に携わってきた者にとって、いまひとつ、すっきりしないところがある。グリムやアンデルセン童話の場合、その最初で最大の受け入れ経路となったのは、当時盛んに輸入されていた外来の英語教科書であった。それが、マザーグースにかぎって、幼稚園唱歌ということには、なにか特別な理由でもあるのか。わたしには、その理由が思い当たらないのである。
 たしかに、マザーグースのなかには、メロディーをともなう歌がないわけではない。日本でもよく知られている「キラキラ星」や「メリーさんの羊」、「ロンドン橋」などはその典型的な例だろう。しかし、それとは別に、ただ声に出して朗読するだけの詩というのも数多く含まれている。マザーグースというのは、普通イギリスでは「ナーサリー・ライム」とよばれていて、その意味は「幼児の(ナーサリー)」「詩(ライム)」ということである。つまり、鷲津氏も指摘するように、「歌というよりも、英語圏の子どもが生まれて初めて触れる英語の詩で、それも押韻詩」(注4)というのがその定義ということになる。現在では、それをわざわざ「読むための唄(リーディング・ライム)」と位置づける研究者もいるということが、平野敬一氏の『マザー・グースの唄』(注5)という書物には述べられている。
 そういうことであるならば、その受容経路としてまず考えなければならないのは、唱歌よりは、むしろ英語教科書のほうではないか。英語を母語とする児童のために編まれた外来の英語教科書、それこそが日本にマザーグースをもたらす最初の書物であったと考えるのが筋ではないか。そう思って、これまでのマザーグース受容史研究に関する文献を調べてみたところ、意外なことに、マザーグースと初期の英語教育の関係について言及しているものが見あたらない。わずかに、内外のマザーグース研究に精通する藤野紀男氏が、二〇年ほど前に発表した論文のなかで、「英語教育が盛んになって来た頃に、マザーグースが必ずや何らかの形で使われるようになった」(注6)にちがいないという推測を行っている程度である。藤野氏といえば、早くからマザーグースの面白さに着目して、それを日本に紹介してきた功労者の一人である。『幼稚園唱歌』に掲載された「きらきら」と「我小猫を愛す」を見つけたのもほかでもない藤野氏であった。その藤野氏が二〇年前に「発見」した『幼稚園唱歌』が、いまだに日本における最初のマザーグースの紹介文献とされているということは、英語教科書ルートの研究というのは、今日なお未開拓の研究とみていいのだろう。
 そこであらためて注目してみたいのが、初期の英米において編纂された舶来の教科書である。よく知られるように、日本では、二百数十年にわたる鎖国が解かれて以降、最初の数十年間は、英語教育を行うのに舶来の英語教科書をもってした。それらの英語教科書は、元来が英語を母語とする子どもたちのために編纂された教科書であり、そのなかに、彼らが親しんできた西洋の物語や詩が多数掲載されていて、それが日本の読者に西洋のフェアリーテールズや詩を紹介するきっかけをつくった。グリムやアンデルセンなどの英語圏外に端を発する児童文学作品でさえそうなのだから、英語を母語とする子どもたちがみなその言語の習得過程で自然に心に刻みつけてきたマザーグースの詩が載っていないということは考えにくい。事実、わたしは、西洋の著名童話の文献を調査するなかで、何度かマザーグースの詩を目にしたことがある。やはり、この際、そうした外来の英語教科書に掲載されたマザーグースの詩を可能なかぎり拾い出して、それが果たした歴史的役割について、徹底的に検証を行ってみる必要がある。
 そのような考えに立って、まず、明治期に日本の教場で使われた主要な舶来英語リーダーに掲載されたマザーグースの詩の存在を確認してみることにした。もちろん、そこに、日本で出版されたその翻刻書や、それに付随する無数の自習書を加えることも忘れなかった。そのようにして開始した調査であったが、それをはじめた時点では、ほんの一、二点しか確認できていなかったマザーグースの文献が、終了の段階では一気に数十点にも膨れあがっていたというのは、なんといってもうれしい誤算であった。今まで『幼稚園唱歌』と竹久夢二の著作に掲載された数編の詩にかぎられていた明治期のマザーグース関係資料は、これによって一気に数十点の資料に増大することになったのである。裏を返せば、それだけ、初期の西洋文化の導入に果たした英語教育の役割が大きかったということになるだろう。
 ともあれ、本稿では、その新たに発見された資料をもとに、明治期の外来英語教科書がマザーグースの受容史上に果たした役割について、さまざまな角度から検証を行った。本書誌シリーズ第三巻に掲げた「明治の『シンデレラ』と『赤ずきん』」、あるいは第五巻に載せた「馬に乗った裸の王様」の拙稿とともに、ここでもまた、期せずして、明治期の西洋文化の導入に果たした英語教育の重要性を強調する結果となったが、これもひとえに、日本の近代化を促進する上で当時の英語教育が担った役割がそれだけ大きかったというあかしといえるだろう。


一 出会いは明治初年の「キラキラ星」

 『ウィルソン・リーダー』に掲載された最初の文献
さてそれでは、早速今回の調査で発見された本邦最初のマザーグースの文献に注意を向けてみたいと思う。その最初の文献というのは、有名な『ウィルソン・リーダー』の第二巻(注7)に掲載されている「キラキラ星」である。全部で五節からなるその詩のうち、第一節と第四節は原詩のまま、残りの三節には一部ないしは全面的な変更が加えられて、掲載されている。その変更点がわかるように、イギリスのオーピー夫妻が編纂した『オックスフォード・ナーサリー・ライム事典』(注8)に掲載された原詩とともに、以下にそれを掲げてみることにする。【挿絵省略】

『ウィルソン・リーダー』 The Oxford Dictionary of Nursery Rhyme

TWINKLE LITTLE STAR.

Twinkle, twinkle, little star; Twinkle, twinkle, little star;
How I wonder what you are! How I wonder what you are!
Up above the world so high, Up above the world so high,
Like a diamond in the sky. Like a diamond in the sky.

When the glorious sun is set, When the blazing sun is gone,
When the grass with dew is wet, When he nothing shines upon,
Then you show your little light, Then you show your little light,
Twinkle, twinkle, all the night. Twinkle, twinkle, all the night.

In the dark blue sky you keep, Then the traveler in the dark
And often through my curtains peep; Thanks you for your tiny spark;
For you never shut your eye He could not see which way to go,
Till the sun is in the sky. If you did not twinkle so.

Tell me, for I long to know, In the dark blue sky you keep,
Who has made you sparkle so? And often through my curtains peep,
It is God, the star replied, For you never shut your eye,
God, who hung me in the sky. Till the sun is in the sky.

He stoops to watch an infant soul As your bright but tiny spark,
With an ever gracious eye, Lights the traveler in the dark,--
And esteems it dearer far, Though I know not what you are,
More in value than a star. Twinkle, twinkle, little star.

 これをみてもわかるように、第一節の一番有名な詩句にはまったく変更がない。第二節も、最初の二行に多少の変更はみられるものの、残りの二行は原詩のままである。そして第三節以降において、はじめて大きなちがいが現れる。すなわち、第三節の詩句がすべて取りのぞかれて、代わりに原詩の第四節がそのまま当てられている。要するに、全体の構成からいうと、最初の三節は、原詩の詩文がほとんどそのまま採用されて、残りの二節は、全面的に入れ替えられているというのが、『ウィルソン・リーダー』に掲載されている「キラキラ星」の内容である。
 原詩改変の背景
なぜ、そのような変更が加えられたのかということだが、その原因は『ウィルソン・リーダー』のもっている特異な性格にある。それを一言でいうならば、『ウィルソン・リーダー』というのは、キリスト教教育を前面に押し出した教科書であったということである。そのことは、各課の表題をみればすぐにわかるだろう。『第一リーダー』から『第五リーダー』まであるうちの、『第一リーダー』の四章八課、すなわち一通りの文章パターンを終え、roseやfoundといった過去形、過去分詞形を習いはじめる最初のところで早くも、「神は寛大だ。神はすべてを創りたもうた(God is good. He made all things.)」の文章が登場する。それ以降、「子供の朝の祈り」(四章一四課)、「汝、神はわれを見たまう」(四章一八課)、「子どもの夕べの祈り」(四章二七課)、「子どもを祝福するキリスト」(四章三〇課)、「神はすべてを創られた」(五章六課)、「神の正義は永遠に」(五章七課)、というように一章すべてを費やした祈祷文や神への礼讃の文章が続く。そのほかにも「ユダヤ教の僧侶たち」といった題名のもとにキリスト教とユダヤ教の差異を説いた章が挿入される(五章九課)など、英語教育と同時にキリスト教教育をもあわせて進めていこうという意図がありありとみてとれる。この意図は『第二リーダー』『第三リーダー』にいたっても、強まりこそすれ、決して弱まることはない。『第三リーダー』では、開巻第一章の二四課全体がすべて聖書からの引用物語に当てられるといった力の入れようである。
 このように『ウィルソン・リーダー』というのは明確な意図をもって編まれた、きわめて個性豊かな英語読本であり、キリスト教的色彩の強さのほかにも、動物の記述の多さ(たとえば『第三リーダー』の第三章は「動物学(zoology)」の標題の下になんと約一五〇頁もの紙幅が割かれている)といった独特の偏りも認められる。
 そのような『ウィルソン・リーダー』に備わる性格に照らしてみるならば、この「キラキラ星」の詩文が、「あなたをそれほど輝かせているのは、誰/それは神です、と星は答えた(Who has made you sparkle so? / It is God, the star replied,)」(第四節)と、神を賛美する言葉に替えられているのも合点がいくだろう。要するに、マザーグースの詩のなかでも最も人口に膾炙する「キラキラ星」の詩を利用して、「神」の尊さを子どもたちの脳裏に刻みつけるというのがその変更のねらいであった。
 福澤諭吉も目にしていた「キラキラ星」
それはともかく、この『ウィルソン第二リーダー』に掲載された詩が、はじめて日本の読者の目にふれるのは一体いつ頃のことか。それについては、『日米文学交流史の研究』(注9)の著者・木村毅が、こんなことを述べている。すなわち、『ウィルソン・リーダー』というのは慶応三年に、「福澤諭吉が二度目の渡米をしたとき、もちかえって日本国内にひろめた読本で、明治になると全国を風靡し、坪内逍遙、三宅雪嶺、加藤高明、八代六郎なども名古屋英語学校でこれをならっ」た、と。なんと、この文章によれば、日本の人々がそれをはじめて目にした時期は、明治をつきぬけて幕末期にまでさかのぼるということである。しかも、それを目にした最初の人物は、大の文学嫌いといわれる福澤諭吉であったというのだから面白い。そのほかにも、坪内逍遙や三宅雪嶺、加藤高明と、日本の近代化を支えた知識人たちがみなそれを使って英語を学習したと述べられているのも見のがせない点である。
 実際、それを裏づける資料は、いたるところに見出される。たとえば、福澤諭吉が明治六年四月に東京府に提出した慶應義塾の「開学願書」をみると、そこで用いられた英語リーダーとして、『ウィルソン・リーダー』の第一から第四までの書名があげられている(注10)。同じ頃、東京府に提出された他の「英学私塾」の書類をみても、使われた英語リーダーはほとんどが『ウィルソン・リーダー』と記されている(注11)ところから、それが明治初期の最も一般的な英語リーダーであったと考えてまちがいない。
 単に、初期だけのことではない。明治一〇年代に入っても一向にその流行が衰える気配はみえず、一八七九(明治一二年)に、一三歳で中学校に入学した夏目漱石の年表などにも、「大助から『ウィルソン・リーダー』を教えられる。明治十二年(一八七九)、十三歳で、東京府第一中学校正則科に入学してからだと想像される」(注12)と記されている。その下段の注記には、「子規も松山中学校でこれを使っている」とある。要するに、坪内逍遙も三宅雪嶺も、夏目漱石も正岡子規も、明治初年から一〇年代にかけて英語を学んだ人たちは、ほとんど全員『ウィルソン・リーダー』を用いて英語を学んでいたということが、それらの資料から推測できるのである。言い換えると、そこに掲載されている「キラキラ星」の詩を、そうした人たちはみな読んで知っていたということになる。
 日本の出版社が手がけた最初の翻訳
では、それを日本の出版史という観点からみた場合、どういうことがいえるのか。初期の英語教科書というのは外国から輸入されたものをそのまま用いていたために、文献的には日本の出版社がかかわるようなものはなにも残されていない。したがって、福澤諭吉が『ウィルソン・リーダー』を日本に持ち帰って以来の十数年間というのは、日本のマザーグース文献史という観点からみた場合、いまだ空白の時代であったということになる。
 しかし、そうした情況は、明治一〇年代中頃にいたると、一変する。ようやく独自の出版に目を向けはじめた日本の出版社が、マザーグースの詩を掲載する英語リーダーの翻刻書や訳注書を刊行しはじめるのである。わたしの調査したかぎりでは、そうした翻刻書・訳注書のなかで最も古いものは、一八八一(明治一四)年一二月に、東京の「ブック・セリング・カンパニー(Book Selling Co.)」(注13)(丸家善七をはじめとする東京に拠点をおく六書店を構成員とするコンソーシアム)から刊行された『ウィルソン第二リーダー』の翻刻書である。内容的にいうと、アメリカのHarper & Brothers社が出版する『ウィルソン第二リーダー』をそっくり翻刻し直したものだから、とくにここで取り立てていうべきほどのものはないのだが、マザーグースの文献史という観点からみた場合、これが日本の出版社が刊行した最初の文献ということになるために、とくに注意を払う必要がある。つまり、日本のマザーグースの出版史は、この一八八一年一二月に刊行された『ウィルソン第二リーダー』によって幕が切って落とされることになったのである。
 文献史的にみた場合、その次に注目すべきは、「直訳」や「独案内(ひとりあんない)」の文字をともなう『ウィルソン・リーダー』の教本である。そこには、日本で最初のマザーグースの翻訳が、「直訳」ないしは「意訳」というかたちで掲載されている。たとえば、そのような訳文をともなう文献で、現在わたしが確認している最も古いものは、先の翻刻書が出版された翌年、すなわち一八八二(明治一五)年に岐阜で刊行された『ウイルソン氏 第二リイドル直訳』(注14)(村井元道訳、同年四月「御届」)である。そこには、日本で最初のマザーグースの翻訳とみられる、次のような「キラキラ星」の訳文が掲載されている。【挿絵省略】

  第十四章 小サキ星ガ輝ク
小サキ星ガ輝クヨ、輝クヨ
如何ニ私ハ汝ガ何デアルカヲ驚クヨ
空二於テ金剛石ノ如ク左様ニ高ク
世界ノ上ニ昇レ

貴キ太陽が沈ムデアル時ニ
草ガ露ヲ以テ湿テアルトキニ
然ルトキ汝ハ汝ノ小ナル光ヲ現ハス
終夜爛キ爛ク

暗キ青空ニ於テ汝ハ保ツ
而シテ屡々私ノ暖簾ヲ通シテ覗ク
何トナレハ汝ハ決シテ太陽ガ
空ニアルマデ汝ノ目ヲ閉ヌ故ニ

私二話セ何トナレハ私ハ知ルヘク悦ブ故ニ
誰ガ汝ヲシテ左様ニ輝カシメタカ
ソレソレハ空ニ於テ私ヲ掛ケシ処ノ
ソレガ神デアルト星ガ答ヘシ

彼ハ常ニ輝キタル目ヲ以テ
人間ノ霊心ヲ気付ケルベク俯見ル
而シテ遙カヨリ愛シテソレヲ貴ブ
星ヨリハ値ヒニ於テヨリ多ク

 これは明らかに、先に掲げた『ウィルソン第二リーダー』中の「キラキラ星」の原文を、表題も含めてそっくりそのまま「直訳」したものである。英文を読み下しただけのみるからに稚拙な訳文ではあるが、その目的が、学生の英文理解の補助ということにあった以上、それも致し方のないことである。つまり、そうした逐語訳的な読み下し文こそが「直訳本」の特色であったということになる。
 初期の「キラキラ星」の学習法
裏を返せば、力点は、それだけ英文のほうにおかれていたということになる。重要なのは原文のほうで、訳文は、あくまでもそれを補助するために添えられているにすぎない。学習者は、その訳文にそってひととおりの意味を理解すると、すぐに日本語をはなれて原詩の暗誦へと向かっていった。「キラキラ星」をはじめとするマザーグースの英文というのは、元来が、そうした暗誦用教材としてそこに掲げられているものである。
 上に示した訳文だけをみていただけでは、そのような学習プロセスはあまりはっきりしないが、当時の英語の自習教材には、「直訳本」のほかに「独案内」と称するものが出版されていて、それをみれば当時の学習プロセスはより鮮明に見えてくる。そうした「独案内」で、「キラキラ星」の内容を確認すると、こんなふうになっている(注15)。

ツウインクル ツウインクル リツトル スタアー
Twinkle, twinkle, little star;
ツウインクルヨ ツウインクルヨ 小サキ 星
(一) (二) (三) (四)

ハウ アイ ウヲンダアー ホワツト ユー アール
How I wonder what you are!
如何ニ 私ハ 驚クヨ 何ンデ 汝ガ アルヲ
(一) (二) (六) (四) (三) (五)

ここに示したのは冒頭の二行だけで、原本には先に掲げた「キラキラ星」の全文がこれと同じかたちで示されている。文章の見方は簡単で、中央に記された英語を中心に、右がカタカナによるその発音表記、左が、カタカナと漢字による訳文ということになる。英語を基準としているために、英文を音読するには、最初のカタカナ表記にしたがって「ツウインクル ツウインクル リツトル スタアー」と読み下していけばそのまま英語の文章になるが、日本語の訳文の場合は、下に振られている数字にしたがって言葉を並べ替えていく必要がある。二行目を例にとると、「(一)如何ニ(二)私ハ(三)汝ガ(四)何デ(五)アルヲ(六)驚クヨ」という組み立てになる。
 明治の人びとはこんなふうな方法で英語を理解してたのかと、思わずため息が出そうなところだが、それはひとまずおいて、そうした学習法のよって来たるところを考えてみると、あきらかに、その背景には、当時学問の主流をなしていた漢文の学習法があった。しかし、それにならったものにちがいはないが、よくみると大きな相違がみられる。それは、上の英文にはすべてカタカナによる原文の読み方が示されているということである。当時の漢文テキストには、原文に返り点が付けられているものはよく目にするが、その横に原文の読み方まで示してあるものはない。つまり、返り点にしたがって「少無適俗韻」を「少(わか)きより俗に適(かの)うの韻(しらべ)なく」(注16)と読み下していくのが、漢文の主な学習法となっていた。
 ところが、当時の英語教育においては、それだけでは十分とはいえなかった。なによりもまず、原文の音読ということが重視された。「ツウインクル ツウインクル リツトル スタアー」と原文の「音読」をマスターしてはじめて、次の「如何ニ私ハ汝ガ何デアルヲ驚クヨ」という、「訓読」に移っていくことができた。その「音読」と「訓読」の比重は、少なくとも同等のものであったことが、上に掲げた「独案内」の内容から判断できるのである。
 このことは、マザーグースの受容史ということを考える上で、見逃すことのできない重要な点である。つまり、明治のマザーグースの受容というのは、その原音の響きや押韻の妙も含めて、本来それが有する面白さの全体を理解するようなかたちではじまったということができるのである。それを裏づける意味で、ここに掲げた「独案内」というのは、二つと得がたい貴重な資料ということになる。
現在国会図書館には、そうした「直訳」や「独案内」と称する『ウィルソン第二リーダー』の自習書が一一種類(すべて出版社や版の異なるもの)も所蔵されていて、その多くは三版、四版と版を重ねているから、全国への浸透ぶりは相当なものであったことがうかがわれる。
 『ウィルソン・リーダー』による受容の意義
日本の人びとは、マザーグスという自覚こそなかったものの、このようなかたちで「キラキラ星」の受容を開始した。それがどのような経過を経て日本の教育現場に広まっていったのか、その流れをあらためてここで確認しておくと、まず発端は、慶応三(一八六七)年、福澤諭吉が二度目の渡米の際に『ウィルソン・リーダー』をもちかえったことにはじまる。それが慶應義塾をはじめとする多くの学校に受け入れられて、「キラキラ星」は全国に広まっていった。当初、それを広める役はもっぱら舶来本が担っていたが、明治一〇年代の中頃になると、日本で最初の『ウィルソン第二リーダー』の翻刻書が刊行され、「キラキラ星」の流行に一層のはずみがつくことになった。その本邦初の翻刻が出された年が、明治一四(一八八一)年。さらに、一年後には、「キラキラ星」の最初の「直訳」が出版されるという注目すべき出来事が起こった。それは、従来本邦初訳とされてきた『幼稚園唱歌』掲載の翻訳よりも、一〇年も早い翻訳であった。
 本邦初訳という点もさることながら、注目すべきは、それを受け入れた人びとの層の厚さである。明治前半に英語を学んだ人の多くは『ウィルソン・リーダー』を用いて英語を学んだということから、「キラキラ星」を目にした人の数も、その『ウィルソン・リーダー』を用いて英語を学んだ人の数に匹敵する。つまり、坪内逍遙も、夏目漱石も正岡子規も、明治初年から一〇年代にかけて英語を学んだほどの人たちは、ほとんどみな「キラキラ星」を読んで知っていたということになる。そのことを裏づけるかのように、現在国会図書館には、『ウィルソン第二リーダー』の翻刻書が九種類、さらにその「直訳書」や「独案内」が一一種類も所蔵されている。日本におけるマザーグースの受容が『ウィルソン・リーダー』とともにはじまったということの意義は、まさに、この、それを受け入れた人びとの数の多さ、層の厚さということにある。


二 『ナショナル・リーダー』とともに明治後半へ

 「キラキラ星」を掲載した新たなリーダーの出現
『ウィルソン第二リーダー』による「キラキラ星」の受容の流れを整理するとだいたい以上のようになるが、一つだけ、ここに書き残したことは、その流れが明治の何年頃まで続いて、その後どんなかたちでほかの英語リーダーへと引き継がれていったのかということである。その継続的な経過を追いたくて、わざわざ明治前半の流れを整理してみたのだが、そうした作業が欠かせなくなるほど、ここに取りあげた内容はその後の受け容れの流れと密接なつながりをもっていく。
 その原因は「キラキラ星」という作品が、明治一〇年代の後半になって、新たに別の二つのリーダーに取りあげられたということにある。そのリーダーというのは、『サージェント第一リーダー』と『ニュー・ナショナル第二リーダー』(以下『ナショナル第二リーダー』と表記)という二つのリーダーである。つまり、明治二〇年前後を境として、それ以前の人びとは、『ウィルソン第二リーダー』によって、それ以降の人びとは、それとは別の英語リーダーをとおして、「キラキラ星」に親しむことになったのである。「キラキラ星」の受容の全貌をつかむには、その二つの流れを一つに結びつけて、明治期全体の受容の流れとして捉えていく必要がある。
 そういうことで、早速、その引き継ぎの役をはたした二つのリーダーの内容について紹介してみると、まず最初は『サージェント第一リーダー』である。その「第二部(Part Two)」に「キラキラ星」の全文が載っている。『ウィルソン第二リーダー』とちがって、今度は変更をともなわないテキストの全文が掲載されている。オーピー夫妻が編纂した『オックスフォード・ナーサリー・ライム事典』の原文と比較すると、第二節の最初の二行が、「When the blazing sun has set, / When the grass with dew is wet,」と、『ウィルソン第二リーダー』掲載の詩句と類似のものに変えられている以外は、コロンや感嘆符などをのぞいて、ほぼ一致している。マザーグースという伝承童謡に、この種のちがいはつきものだから、だいたい原詩がそのまま掲載されていると考えていいだろう。つまり、明治の人びとは、この『サージェント第一リーダー』をとおしてはじめて、「キラキラ星」の全文にふれることができるようになったのである。
 しかし、マザーグースの受容史上に占める位置ということからいうと、この『サージェント第一リーダー』による受容は、『ウィルソン第二リーダー』の場合と比べて、それほど重要なものとなっていない。というのは、この『サージェント第一リーダー』という教科書は、あまり一般に流布した形跡がなく、日本の出版社から出された翻刻書は、わずかに(注17)一書(明治一八年一二月)を数えるのみである。「独案内」のほうも、その翌年に出版された、広原光太郎訳『サーゼント氏第一リーダー独案内』(注18)以外、現在のところ確認されていない。要するに、『ウィルソン第二リーダー』と比べて、一般への浸透は、限られていたということになる。結局、その受容史上の価値というのは、「キラキラ星」の全文を、限定的ながら当時の人びとに示して見せたということにとどまる。そのことを確認した上で、話をもう一方の『ナショナル第二リーダー』のほうに移そう。
 英語教育を支える主要リーダーの交代
マザーグースの受容史上からすると、こちらのほうは、はるかに重要な意義をともなっている。『ウィルソン・リーダー』の果たした役割をそっくりそのまま明治後半に引き継ぐという大きな役割を担ったといってもいいほどだ。なぜそのように重要な役割を担うことができたのかというと、その主な理由としては、『ウィルソン・リーダー』と同じように、それが日本の英語教育を支える主要リーダーとなっていったということがあげられる。すなわち、明治二〇年前後を境に、日本の英語教育を支える主要リーダーが、『ウィルソン・リーダー』から『ナショナル・リーダー』へと移っていくことになったのである。
 そうした交代の背景には、明治一八年に文部大臣に就任した森有礼の教育政策があった。森文相の実施する教育政策は、森個人の性格を反映して、西洋の合理主義を取り入れた進歩的な側面をもつ一方で、富国強兵という当時の国策にそったきわめて国家主義的な色合いの濃いものでもあった(注19)。外国語教育重視の方針がうち出される一方で、従来あまり注意の向けられなかった教科書の内容にも関心が払われるようになっていった。その結果、キリスト教的色彩を色濃くにじませた『ウィルソン・リーダー』は敬遠され、宗教色のより少ない『ナショナル・リーダー』がそれにとってかわる地位をしめることになったのである。
 そのことは、現在、国会図書館に所蔵されている英語リーダーの数からもはっきり読みとることができる。参考までに、そこに所蔵されている翻刻書と直訳本の点数を一覧表にまとめてみると、次のようなものである。

リーダー名 種類 第一 第二 第三 第四 第五
ウィルソン 翻刻書 20(12〜20) 9(14〜24) 6(19〜20)
直訳本 29(13〜20) 11(15〜18) 2(17〜18)

ユニオン 翻刻書 7(17〜29) 3(18〜 ) 4(17〜20) 2(20〜26)
直訳本 11(17〜20) 4(17〜21) 4(18〜23) 11(17〜35)

ナショナル 翻刻書 38(18〜34) 29(19〜 ) 15(19〜 ) 9(20〜 ) 6(20〜37)
直訳本 44(18〜45) 27(18〜34) 25(19〜43) 12(19〜45) 9(21〜41)

ロイアル 翻刻書 4(20〜22) 3(19〜22) 2( 〜22) 2(20〜22)
直訳本 2(19) 3(20〜21) 3(19〜21) 2(20〜22)

スウィントン 翻刻書 8(19〜34) 7(20〜 ) 7(20〜 ) 4(21〜 ) 2(32〜35)
直訳本 7(20〜31) 9(20〜 ) 6(20〜32) 4(21〜25) 2(22〜26)

ロングマン 翻刻書 13(20〜33) 11(20〜33) 8( 〜34) 4( 〜33) 4( 〜33)
直訳本 10(20〜31) 8(20〜 ) 12(20〜31) 10(21〜33) 1(24)

 表の見方は、それぞれカッコの外の数字が、国会図書館の所蔵点数(すべて種類の異なるもの)で、カッコのなかはその刊行時期である。たとえば、右端の『ウィルソン第一リーダー』の翻刻書は、現在国会図書館に二〇点所蔵されていて、刊行の時期は明治一二年から二〇年であったということになる。
 注目すべきは、一番目にあげられている『ウィルソン・リーダー』と三番目にあげられている『ナショナル・リーダー』の刊行点数である。両者が明治期に流行した主要英語リーダーであることは、カッコの外に書かれた数字が他を圧倒する数字となっていることをみればすぐにわかる。一方、その刊行の時期に関してはどうかというと、まず『ウィルソン・リーダー』のほうだが、それが終了するのは、一書(『第二リーダー』翻刻書)をのぞいて、すべて、明治一八年から二〇年の間となっている。それに対して、『ナショナル・リーダー』のほうは、やはり一書(『第五リーダー』直訳本)をのぞいて、すべてが明治一八年から二〇年に出版がはじまっている。つまり、森文相が教育改革に乗りだす明治一八年を境に、日本の英語教育を支える主要リーダーが『ウィルソン・リーダー』から『ナショナル・リーダー』へと交代するということが、この一覧表からはっきり読みとることができるのである。
 『ナショナル・リーダー』に引き継がれた「キラキラ星」
では、それが、マザーグースの受容とどのようにかかわってくるのかということだが、普通、リーダーが変われば当然その内容も変わる、つまり、「キラキラ星」も他の詩に取って代わられると考えるのが常識だが、『ナショナル・リーダー』の場合、そういうことにはならなかった。『ウィルソン・リーダー』に掲載された同じ「キラキラ星」の詩が『ナショナル・リーダー』に引き継がれるという、一般的にはあまり考えられないことが起こったのである。
 『ウィルソン・リーダー』と『ナショナル・リーダー』の密接なつながりは、そのテキストを比べてみれば一目瞭然である。たとえば双方の『第二リーダー』を例にとると、そこに掲げられている話題は、両者ともに、男の子のたこ凧や女の子の人形、あるいは羊や馬や牛などの身近な動物というように、よく似たものが取りあげられている。各課の表題も「怠け者の少年(The Idle Boy)」、「けして嘘をつくなかれ(Never Tell a Lie)」と、まったく同一の題名さえ見受けられる。そして、問題の「キラキラ星」も同様に、教科書の最後におかれた「Pearls in Verse(珠玉の詩)」というコーナーにそのまま転載されている。要するに、一八八〇年代に刊行された『ナショナル・リーダー』が、一八六〇年代に刊行された『ウィルソン・リーダー』の内容を一部踏襲したということになる。
 そうはいっても、ただ踏襲したわけではない。その背後には、『ウィルソン・リーダー』の内容をある程度参考にしながらも、そこからできるかぎり宗教色を取りのぞいて、だれもが手にすることができる、文字通り「国民読本」に変更するという意図が働いていた。そのことは、テキストの本文のなかに、「GOD(神)」の文字が出てこないということからも推測できる。わずかに巻末におかれた「Pearls in Verse(珠玉の詩)」のコーナーに数回それが出てくる程度で、それ以外にはみつからない。その「珠玉の詩」のコーナーにおかれた「キラキラ星」にしても、「神」の出てくる箇所は省略され、最初の二節のみが掲げてある。その全文を以下に示すと、次のようなものである(注20)。

[原文] [「独案内」による翻訳例]
Twinkle, twinkle, little star; ラン ランタル 小ナル ホシ 
How I wonder what you are! イカニ ワレハ ソラノ 中 
Up above the world so high, シヤマンドノ ゴトク サホドニ タカク セカイノ ウエニ
Like a diamond in the sky. ナンヂハ ナンデ アルカト オドロク
   小星ノ爛々タルハ金剛石ノ空中ニアルカ如シ

When the glorious sun is set, アキラカナル タイヤウノ イリテ アル トキ
When the grass with dew is wet, ツユヲ モツソノ クサガ シメリテ アル トキ
Then you show your little light, ソノトキ ナンヂハ ナンヂノ チイサキ ヒカリヲ アラハス
Twinkle, twinkle, all the night. マツタキ ヨル ラン ランタリ
   日落チテ草露ヲ帯フレハ耀々タル小星終夜現ハル

 『ナショナル・リーダー』のテキストは上段に掲げた英文のみで、下段の翻訳は当時の「独案内」から引いたものである(注21)。これを見てもわかるように、「GOD(神)」の記述はどこにも出てこない。これも、『ウィルソン・リーダー』から宗教色を取りのぞくための変更の一つとみなすことができるだろう。
 暗誦用テキストとしての「キラキラ星」
しかし、「Pearls in Verse(珠玉の詩)」にかぎっていえば、それ以外にもう一つそこに手を加えなければならない大きな理由があった。それはすなわち、詩文の単純化ということである。それを単純化してだれもが口ずさめるようにするというねらいがあった。その証拠に、そこに掲げられた九編の詩はすべて、一節ないしは二節からなる単純な詩となっている。そして、欄外に掲げられた注記には、「これらの詩は生徒に暗記させるためのものである(It is intended that these selections shall be memorized by pupils.…)」(注22)と、わざわざ学習の目的が明示されている。そうした点から判断して、第三節以下の省略というのは、主に、生徒が「暗記(memorize)」しやすいようにという配慮からなされた省略であったとみることができるのである。
 このことは、マザーグースの受容ということを考える場合、見逃すことのできない大変重要な点である。『ウィルソン・リーダー』の場合も、そのような暗誦用教材として掲げられていた可能性は高いが、『ナショナル・リーダー』においては、そこにはっきりと「これらの詩は生徒に暗記させるためのものである」と明記されているのが大きなちがいとなっている。生徒は、その指示にしたがって、まずそれを口に出して朗読する。そしてひととおりの意味を理解した後で、今度はそれを丸ごと頭のなかに刻み込む。そのようにして「キラキラ星」の詩を脳裏に焼きつけていった読者は決して少なくなかったと思われる。
 これは、『英語青年』の編集に長年携わった喜安W太郎が伝える話だが、第二次世界大戦たけなわの昭和一九年のある日、彼のもとに以前女学校の校長を勤めたという七〇歳の老翁が訪ねてきて、自分は今でも昔習った英語リーダーを忘れないといって、『ナショナル第三リーダー』の一章を一字一句たがえずに暗誦して見せたという(注23)。普通の講読用教材においてもそうなのだから、ましてや暗記用教材として掲載された詩の場合は、それを一旦頭に刻みこんで、いつでも興味のおもむくままに思い起こしては口ずさむという詩本来の楽しみ方をしていた生徒も少なくなかったにちがいない。それこそは、英詩のリズムをまるごと肌で体感する最良の方法であり、それこそは、マザーグースの面白さをあますところなく味わう本来の鑑賞法である。
 ともあれ、明治一八年以降の英学生たちはこんなふうにして、「キラキラ星」の詩と向き合った。それを目にした読者の数は、当時の英語学習者のほとんどすべて、その期間は明治二〇年頃から大正期にいたる数十年間。現在国会図書館に所蔵されている『ナショナル第二リーダー』の翻刻書・直訳書が五六点にも及ぶ(すべて版の異なるもの)ということからみて、あるいは明治期の中等教育を受けた人びとの数が優に数十万人に達していたという事実から判断して、おそらくそれは明治大正期で最も人口に膾炙する英詩の一つとなっていたにちがいない。さらに、それを『ウィルソン・リーダー』の受容と結びつけて考えるならば、はじまりは、慶応三(一八六七)年の福澤諭吉の帰朝にまでさかのぼる。それ以来半世紀以上にわたって、日本の英語学習者の多くは、「キラキラ星」の詩を口ずさんでは心の慰みとしてきたのである。日本におけるマザーグースの受容史は、この『ウィルソン・リーダー』と『ナショナル・リーダー』という二つの主要英語リーダーを媒体とする「キラキラ星」の受容を抜きにしてはとうてい語ることができないということになる。


三 さし絵をともなう「靴に住むおばあさん」の出現

 「ナーサリー・ライム」欄の開設
「キラキラ星」の受容の流れを追って明治末年にまで話を進めてしまったが、少し時代を戻して、「キラキラ星」以外の作品に注目してみることにしよう。明治二〇年前後の日本において「キラキラ星」以外に知られていたマザーグースの詩に、「かわいい小猫」「メリーさんの羊」「靴に住むおばあさん」等の有名な詩を含む五編の詩があったが、注目すべきことに、それらは、みな同じ一つの英語リーダーのなかに掲載されている。その英語リーダーの名は、『ロイアル第一リーダー』。先ほどの舶来英語リーダーの一覧表でその位置を確認すると、『ウィルソン・リーダー』、『ユニオン・リーダー』、『ナショナル・リーダー』についで四番目に日本に導入された英語リーダーということになる。普及の程度を測る目安となる翻刻本、直訳書の数をみると、『第一リーダー』の場合、翻刻書は四種類、直訳書は二種類、それぞれ発行されている。つまり、「キラキラ星」を掲載した『ナショナル第二リーダー』と比べると十分の一程度の普及率であったということになる。
 しかし、普及の程度はその程度であったが、内容的にみると、マザーグースの受容史上画期的ともいえる重要な事柄がいくつか含まれている。いま、それを簡単にまとめてみると、第一に、そこには「かわいい小猫」「メリーさんの羊」「靴に住むおばあさん」というマザーグースの詩のなかでも最も有名な三編の詩が含まれていること。第二に、その三編の詩にはみなさし絵がつけられていること。そして、第三に、五編のうちの三編は、とくに「ナーサリー・ライム(NURSERY RHYMES.)」というコーナーが設置され、そこにさし絵とともに掲載されている、ということである。要するに、マザーグースの著名作品の紹介史という点からみて、あるいは、そのさし絵の導入史という点からいって、さらには、それをナーサリー・ライムというカテゴリーに属する詩として紹介しているという点からみて、日本における本格的なマザーグースの紹介はこの『ロイアル第一リーダー』とともにはじまったと受けとめていいものである。
 いまそのテキスト全体の雰囲気を伝えるのに、文章のみを転載するというかたちをとったのでは、なかなか面白さが伝わらないので、以下に複写をそのまま掲げてみると、次のようなものである(注24)。
 文章もさることながら、まずわれわれの目を引くのはそこに描かれたさし絵のナンセンスぶりである。だいたい一人の老婆がこんなに子どもをもっていることからしておかしい。その子どもたちが靴の穴から顔を出したり、後ろに隠れてそっと様子をうかがったり、あるいは鍋のスープをすすったり、さらには、それをうらやましそうに指をくわえて見守ったり。老婆は老婆で、ほうきを振り上げ子どもをおどす。なんとも不思議なのは、それを見守る子どもたちの表情である。ある者は泣きさけび、ある者は驚嘆し、またある者は好奇の眼差しをもってそれを見守る。そうかと思うと、ある者などはまったく無関心、靴の穴から足を出して、それを一人悦に入ってながめている。一体この絵はなんだろう。【図版省略】
 これを目にした人びとはみんなそう思うにちがいない。つまり、このさし絵は、「不思議で美しくて、おかしくて、馬鹿馬鹿しくて、面白くて、怒りたくて、笑ひたくて、歌ひたくなる」(注25)マザーグースの本質を視覚的に伝える、またとないさし絵ということになる。ある意味で詩そのものよりもマザーグースの本質をよくあらわしている。これが日本の読者にマザーグースの面白さを伝える絶好の資料となったことは論をまつまい。一体この絵はいつ頃日本に入ってきたのか。わたしたちの関心は、当然そこに向かっていく。
 『ロイアル・リーダー』移入の背景
そこで、その流入の経過に目を向けてみると、まず、ここに掲げたさし絵が掲載された『ロイアル第一リーダー』が、イギリスのネルソン社(T.Nelson and Sons)から発行されたのは、明治時代の初めの頃。初版の発行年が明記されていないので詳しいことはわからないが、おそらく一八七〇年代のことであったと推測される。現在、国会図書館に所蔵されている『ロイアル第一リーダー』の原本(注26)は、中表紙に一八七五年刊行と記され、本の中程に「明治十三年九月改」の印が押されていることから、少なくともその段階ではすでに日本に入ってきていたことが確認できる。それが日本の学校で広く用いられるようになった背景には、例の、森文相の教育改革があった。その改革を機に、教科書の内容に対する国家の監視が強化され、それととともに、キリスト教色を全面に押し出した『ウィルソン・リーダー』が敬遠され、代わりに、この『ロイアル・リーダー』や『ナショナル・リーダー』が日本の教場に広く出回っていくことになったのである。
 その時期は、『ロイアル・リーダー』の翻刻が開始される時期などから判断して、明治一八、九年のことであったと推測される。もちろん、それらの翻刻書にも、画像の鮮明さにおいてはやや劣るものの、ここに掲げたのと同じさし絵が掲載されている。そのような翻刻書で、現在確認されている最も古いものは、一八八六(明治一九)年六月に東京の六合館から刊行されたもの(注27)。その次に古いのが、同じ年の一二月に大阪の吉岡平助が刊行したもの(注28)、というように同じ年にその翻刻書が二種類発行された。つまり、この一八八六年という年は、上に掲げた「おかしくて、馬鹿馬鹿しくて、面白」い、マザーグースの不思議なさし絵が日本の出版社から最初に刊行された記念すべき年であったということになる。
 最初の口語訳
それだけではない、その同じ年の八月には、大阪の江馬主一郎という人物(注29)が、一一月には、やはり大阪の杣田弥三郎という人物(注30)が、『ロイアル第一リーダー』の「独案内」(自習書)を出版しているのである。そこには、さし絵こそないけれど、それに代わって、訳文が掲載されている。とりわけ注目すべきは、最初の江馬主一郎が編著者となっている『ローヤル第一読本 独案内 全』という書物で、同書には、「(一)其処ニ(二)老タル(三)女ガ(四)アリシ」というふうの独案内特有の「直訳」ばかりでなく、最後にそれを日本語としてまとめた「意訳」が掲げられている。その意訳が、日本におけるマザーグースの翻訳史上どのような位置をしめる翻訳であったのか、それを確認するために、次にその全文を引用してみよう。

【江馬主一郎訳 一八八六(明治一九)年八月】
靴ノ中ニ住ミタル老婦ガ THERE was an old woman / Who lived in a shoe;
如何ニシテ宜シイカ知レナカツタ程 沢山ノ小児ヲ持テヲリマシタ She had so many children, / She didn't know what to do:
彼女ハパンノ代リニ或ル汁ヲ与ヘマシタ She gave them some broth / Without any bread:
而シテヤカマシクムチウツ八ケ間敷鞭テ 小供ヲ寝床ヘ遣リマシタ She whipped them all soundly, / And sent them to bed.

【(参考)北原白秋訳 一九二〇(大正九)年二月】【挿絵省略】
お靴の中にお婆さんがござる。
子供がどつさり始末がつかない。
スープばつかり、パンもやらず、
おまけに、小つぴどくひつぱたき、
寝ろちゆば、寝ろちゆば、寝ろちゆばよ。

【(参考)谷川俊太郎訳 一九七〇(昭和四五)年】
くつのおうちの おばあさん
てんやわんやの こだくさん
スープいっぱい あげたきり
みんなベッドへ おいやった
むちでたたいて おいやった

 江馬の翻訳の位置がはかれるように、大正期に発表された北原白秋の訳(注31)と、昭和期に発表された谷川俊太郎の訳(注32)もあわせて掲げておいた。三人の訳文の中では、現代的な言葉遣いやセンスに裏打ちされた谷川の訳がわれわれには最もなじみやすいものとなっている。統一のとれたやさしいひらがな表現といい、文章末尾の押韻といい、先ほどのさし絵とならべて鑑賞するのにぴったりの文章といえるだろう。白秋の文も、人によっては「ござる」や「寝ろちゆば、寝ろちゆば」という表現が気になる人もいるかも知れないが、これはこれで、詩人の個性や生い立ちを色濃くにじませた、楽しい訳文といえるだろう。それに比べると、江馬の訳文は、少々見劣りのする生硬な文章といわざるをえない。第一、伝承童謡という感じがこの文面からは伝わってこない。所詮は、学生の英文理解を助けるための仮の訳ということになる。
 児童を視野においた翻訳
しかし、後世の大詩人の訳と比べてその出来、不出来を云々するというのでは、江馬にとって少々酷というものだろう。ここで問題とすべきは、そういうことよりは、むしろ歴史的価値の方である。そのような歴史的価値ということでいうならば、第一に注目しなければならないのは、この翻訳が、子どもを視野においた翻訳となっていることである。そのことは、文章の末尾が「小児ヲ持テヲリマシタ」、「汁ヲ与ヘマシタ」、「寝床ヘ遣リマシタ」というように、すべて「マシタ」で終わる文章となっているのをみてもわかる。明らかにそこには、子どもの読み手に対する配慮、あるいは「NURSERY RHYMES(養育ノ詩)」を翻訳するという意識が働いていたことがみてとれる。その意識が、当時としてはめずらしい、「言」と「文」が接近した斬新な語り口の文章となって現れたとみることができるのである。
 それは単に「靴に住むおばあさん」一編だけにかぎった話ではない。実は、『ロイアル第一リーダー』には、「NURSERY RHYMES」のコーナーに掲載された三編の詩以外に、さらにもう二編、マザーグースに由来する詩が掲載されている。それは、先述した「かわいい小猫(Little Pussy)」と「メリーさんの羊(Mary's Little Lamb)」と題する二編の詩で、その二編の詩にも、江馬は次のような注目すべき翻訳をつけているのである。

少サキ小猫
私ノ愛ラシキ(ピユージー)ノ毛ハ暖テ御座リマス I LOVE little pussy, her coat is so warm;
私ガ害セネハ彼ハ害シマセヌ And if I don't hurt her, she'll do me no harm.
故ニ尾ヲ引タリ又ハ逐出シタリ致シマセン So I'll not pull her tail, nor drive her away,
只温和ニ遊ヒマス But pussy and I very gently will play.
(ピユージー)ハ私ノ傍ニ坐リ食シマス She'll sit by my side, and I'll give her some food;
私カ親切ナル故ニ彼ハ私ヲ愛シマス(注33) And pussy will love me, because Iam good.

(メーリー)ノ少サキ小羊
(メーリー)ガ雪ノ様ナル白キ小羊ヲ畜テ居リマシタ Mary had a little lamb,/ Its fleece was white as snow;
(メーリー)ガ行キマス処ハ何処ニデモ附テ参リマシタ And everywhere that Mary went/ The lamb was sure to go.
或日学校ヘ出テ参リマシタ 併シ左様ナ事ハ規則ニ違フテ御座リマシタ It followed her to school one day,/ That was against the rule;
生徒ハ学校デ小羊ヲ見テ戯レマシタ It made the children laugh and play/ To see a lamb at school.
ソコデ教員ガ羊ヲ逐ヒ出シマシタガ And so the teacher turned it out,/ But still it lingered near,
(メーリー)ガ出テ参リマスマデ草場デ躊躇シテオリマシタガ And waited patiently about
(メーリー)ガ出ヅルヤ否小羊ハ走リ掛リ Till Mary did appear.
貴君ガ私ヲ害ノナキ様ニ愛シテ被下カラトテ上ニ寄掛リマシタ Why does the lamb love Mary so?/
其レヲ見テ生徒ガナホ小羊ガ斯様ニ(メーリー)ヲ愛スカト叫ビマシタ処ガ The eager children cry;
教員ガ其レハ(メーリー)ガ羊ヲ愛スルガ故ニト云ヒマシタ(注34) Why, Mary loves the lamb, you know,/ The teacher did reply.

 ここでとくに注目してほしいのは双方の文章の末尾である。後者の「(メーリー)ノ少サキ小羊」では、「靴に住むおばあさん」と同様、「マシタ」という過去形が使われている。それに対し、最初の「少サキ小猫」のほうは、「マス」「マセン」という現在形が用いられている。それは、原文が、「I LOVE little pussy」というように現在形の表現になっているためで、「MARY had a little lamb 」という過去形による表現と区別するために、「マス」「マセン」体が使われることになったのである。それが思わぬ効果を上げて、ここにみるように、当時としてはめずらしい斬新な語り口の文章となって現れた。もちろん、猫の幼児語である「pussy」を「ピユージー」と固有名詞のように訳すなど、不備はいくらでも指摘できそうだが、それが訳されたのが一八八六(明治一九)年という、いまだ翻訳技術の未発達の時代であったということを考慮に入れる必要がある。その当時の翻訳というのは、たとえ著名作家が手がけたものでも、多かれ少なかれ、そうした不備をともなっているのが通例であった。
 直訳体の意義
ましてや、その頃の子ども用の読み物ということになると、真の意味での児童文学というのはいまだ存在さえしなかった。その夜明けを告げる鶏鳴の第一声となったのが、よくいわれるように、巌谷小波の『こがね丸』(一八九一年)である。これは、当時の有力書店・博文館が「少年文学」シリーズの第一編として世に送ったもので、小波門下の木村小舟の言葉を借りれば、「漣山人をして、少年文学界の権威たらしめたばかりでなく、前人未踏の好文学として、『少年文学』の地位を確立せしめる上に、至大の効果を」(注35)もたらす作品であった。しかし、その「前人未踏」の『こがね丸』にしたところで、今日人々が目にしている児童文学とは似ても似つかない古さを随所にとどめていた。たとえば、「むかし或る深山の奥に、一匹の虎住みけり」という古風な文体もその一つ。明治一〇年代、二〇年代の作品というのは、たとえ児童文学であっても、そのような文語体でつづられるのが通例となっていた。
 そうした時代背景に照らしてみるならば、ここに示した「少サキ小猫」の文章がいかに型破りな文章であったか、よくわかるだろう。とくに、それを読んだのがこれから英語を学ぼうという若い人たちであったことを考えると、当時の英語教育や英語教本が日本の文章語を近代化していく上で果たした役割は決して小さくなかったものと思われる。その背景にあった、英文を一字一句もらさずに日本語に訳出していく「直訳」の習慣と合わせて、ここに示した「マス」「マセン」調の文章が、日本の生徒の言語感覚を「言」と「文」の接近するより近代的なものへと変えていく最初のきっかけを提供した文章と受けとめることができるのである。
 それはともかく、『ロイアル第一リーダー』のことに話をもどすと、そこに掲載された詩には、マザーグースの受容史という観点からみた場合、特筆すべきいくつかの重要な点が含まれている。いまそれを本章の締めくくりとして簡単にまとめると、次の四点があげられる。すなわち、第一に、そこには「かわいい小猫」「メリーさんの羊」「靴に住むおばあさん」というマザーグースの詩のなかでもとりわけ有名な三編の詩が含まれていたこと。第二に、その三編の詩のそれぞれに特徴のあるさし絵がつけられていたこと。そして、第三に、「ナーサリー・ライム(NURSERY RHYMES.)」というコーナーが設置され、そこに「靴に住むおばあさん」ほかの詩がさし絵とともに掲載されたこと。第四に、「ナーサリー・ライム」、すなわち「幼児の詩」というカテゴリーが明示されたことから、それを解釈する人たちの間に児童の詩と向き合うという意識が生まれ、その意識が当時としてはめずらしい口語的な訳文を生み出すきっかけとなったこと、の四点である。要するに、マザーグースの受容史という観点からこれをふりかえった場合、日本における本格的なマザーグースの紹介は、この『ロイアル第一リーダー』の五編の詩とともにはじまった、と考えてそう大きなまちがいにはならない、いくつかの要因がそこには備わっているのである。


四 散文化された「ボー・ピープちゃん」

 「メリーさんの羊」の物語
さて、次に紹介するのは、厳密な意味ではマザーグースの詩とはいえないが、マザーグースのそれなくして決して生まれなかったと思われるもの、すなわち、散文によるマザーグースの紹介である。当時の英語リーダーには、それが一つではなくて二つまでも掲載されている。まず、簡単な方から紹介すると、『スウィントン第二リーダー』に掲載された「The Lamb in School(学校の子羊)」と題する文章である。『スウィントン第二リーダー』というのは、先ほどの一覧表で確認すると、一八八七(明治二〇)年頃から日本の教室で使われはじめたアメリカのリーダーで、現在国会図書館にはその翻刻書が七種類、直訳書は九種類、それぞれ所藏されている。その第五三課に掲載されている「学校の小羊」という物語は、次のようなものである(注36)。

1. Mary had a little pet lamb with snow-white fleece. Wherever she went, her lamb was certain to go too.
2. One day it followed her to school. Of course this was against the rules, and it made the children laugh to see a lamb in the school-room.
3. So the teacher turned the lamb out of doors. The little pet would not go away, but played about on the grass near by until Mary came out.
4. As soon as the lamb saw Mary coming it ran up to her, and laid its head on her arm, as much as to say, "Now I'm not afraid: you will not let anybody hurt me, will you?"
5. "What makes the lamb love Mary so?" asked the children. "O, Mary loves the lamb, you know," replied the teacher.
学校ニ於テノ羊仔
「1」「マリー」カ雪白ノ羊毛ヲ以タル小キ可愛ラシキ羊仔ヲ持チシ、何処ニテモ彼女カ行クトキニハ彼女ノ羊仔カ亦行クヘク定メラレテアリシ、
「2」一日其レカ学校ニ迄彼女ニ随ヒシ、勿論此カ規則ニ反テアリシ 而シテ其レカ小児等ヲシテ校室ニ於テ羊仔ヲ見ルベク笑ハシメシ、
「3」左様ニシテ教師カ戸カラ外ニ羊仔ヲ回ラセシ 併シナカラ「マリー」カ外ニ来ル迄近辺ノ草ニ於テ遊ヒ廻リシ、
「4」羊仔カ「マリー」ノ来ルヲ見シヤ直チニ其レカ彼女ニ迄走リ 而シテ彼女ノ腕ニ於テ其レノ頭ヲ置キシ云フヘク通リ左様多ク、 今私ハ恐レテアラヌ、 汝ハ何人ヲシテモ私ヲ害セシメヌテアラウ汝カ有ウカ、
「5」小児等カ言ヒシ、 如何ニ左様「マリー」羊仔ヲシテ愛セシメシカ、 教師カ答ヘシ、 オー「マリー」カ羊仔ヲ愛スル汝カ知ル(注37)

 これが「メリーさんの羊」をそのまま散文化したものであることは、先ほどの『ロイアル第一リーダー』の項にに掲げた原詩と比べてみればすぐにわかる。ちがっているのは、原文の第三節に多少手が加えられ、3と4の文章に分けられたことぐらいだろう。あとは、原文の語句をだいたいそのまま踏襲した文章となっている。つまり、英米の子どもたちがみな暗誦して知っている有名なマザーグースの詩を散文化して、それを言語を学習する際の教材として再編し直したというのが、この物語が作られた背景であった。しかし、原詩を知らない日本人には、そんな背景のことはわからない。ただメリーさんの行くところにどこでもついてゆく面白い羊の話を、好奇心をもって受け入れたというのが実際のところだろう。
 それを読む人びとに、マザーグースに由来する物語という意識がなかった以上、その受容史的な価値はあまり高くないといわざるをえないのだが、価値のことはともかく、このような物語が明治の人びとの心に与えた精神的な影響については、それなりの注意を払ってみる必要がある。というのも、われわれ現代人の感覚からするとなんら変哲もない物語でも、当時の人々、とくに西洋の物語に親しんだことのない子どもたちには、意外に大きな精神的な影響を投げかけるということが往々にしてありえたためである。
 中学生に与えた影響
たとえば、この詩と同じ羊を愛する女の子をテーマとしたマザーグースの詩に「ボー・ピープちゃん」という詩があるが、それが同じように散文化され『ナショナル第二リーダー』に掲載されているのを目にしたある中学生は、そこから次のような大きな感動を受けることになったのである。

〔『ナショナル・リーダー』の〕第二巻で私をいちばん感激させたのは、第三六課の“Little Bo-peep”という話だった。ある少女が小さな羊の子をもらい、ボピープと名づけて可愛がるので、小羊はすつかり少女になつく。そして首につけた鈴をティンクル、ティンクルと鳴らしながら、いつも彼女のあとを追う。
 ある冬の夜、少女は病気のためボピープの世話をばあやに頼む。しかしばあやがそれを忘れたので、ボピープはいつものなやにはいれず、冷たい外でこごえ死んでしまう。翌朝それを知つた少女は泣いて悲しむ。そして庭のリンゴの根元にほうむり、兄のネッドが木のミキに板をうちつけ、少女はそれにこう書いたという。
“Little Bo-peep,
Feel fast asleep."
 画は日の当る草原の斜面に大きなリンゴの木が枝を張つて林立し、雪のような花をつけている。兄のネッドは大木のマタに腰かけて見おろす。その下には少女が草に座したまま、四本足で立つ小羊の首を抱いている。小羊とリンゴの木とティンクル・ベル…
 当時の日本には珍らしかつた道具立てが、私を異国的な感傷の詩情で包んでくれたのだつた(注38)。

 いまここに述べられていることを、簡単に整理してみると、まず、『ナショナル第二リーダー』(全五六課)に取りあげられている話のうち、筆者を「一番感激させた」のは、第三六課の「ボー・ピープちゃん」という話であった。これは、「ボー・ピープちゃんの羊が迷子になった」という言葉ではじまる、マザーグース中の有名な詩を、先ほどの「メリーさんの羊」と同じように散文化して物語に仕立てたものであったが(注39)、その話は、筆者に生涯忘れられないほどの感銘を与えた。なぜそれほど感銘を与えたのかというと、そこには「当時の日本には珍らしかつた道具立てが」そろっていためである。「小羊とリンゴの木とティンクル・ベル」といった異国情趣をかきたてる品々が、そして、少女が大事にしていた子羊が死んでしまうという悲しいストーリーが、筆者の心を「感傷の詩情」で包むことになったのである。加えて、そこに添えられている一葉のさし絵、それは、元気だった時の羊を引き寄せる少女の姿と、リンゴの木に打ちつけられた哀悼の言葉が描かれたものであったが、そのさし絵と悲しい物語が一つにとけあって、筆者の脳裏に生涯忘れられないような深い印象を刻みつけることになった。ちなみに、そのリンゴの木に打ちつけられた哀悼の言葉は、筆者の記憶ちがいで、正式には“Little Bo-peep,/ .Fell fast asleep.”(ボー・ピープちゃんは/すっかりおねんね)とあるべきものである。その部分だけが、マザーグースの原詩からとられた言葉で、あとはすべてそれをもとにした改作物語ということになる。
 こんな他愛もない話に心を動かされるなんて、筆者はよほど感傷癖の強い人であったにちがいない。われわれ現代人は、ついそう思いたくなるところだが、それは必ずしもあたっていない。その証拠に、当時の中学生で、舶来の英語リーダーに掲載された物語に強い感銘を受けたということを書き残している人が意外に少なくないのである。たとえば、明治一〇年代に中学時代を送った木下尚江の自伝風小説である『良人の自白』をみると、主人公の白井俊三がイギリスのピューリタン革命を率いたオリヴァー・クロムウェルの物語を、「我は一心に之を読んだ、読み返へした、暗記した、晩飯なんぞ食いたくない、明日の課業の準備なぞどう如何でもい可い」というように、われを忘れて読みふける場面がでてくる。主人公にとってそれが掲載された英語リーダーは、「終生新たなる貴重の聖典である」(注40)とまで述べられている。
 あるいは明治二〇年代に中学時代を過ごした長谷川如是閑の『ある心の自叙伝』には、『ナショナル第三リーダー』に掲載された「マッチ売りの少女」を読んだときの感想がこんなふうに記されている。すなわち、「これもアンデルセンのだつたが、冬の夜にマッチ売りの少女が寒さと飢えとにふるえながら、家のひさし庇合に野宿して、壁にマッチを擦つて、その燐光の輪のなかに湯気の立つ七面鳥の丸焼きや、母の顔や、あこがれているさまざまの幻をみたが、夜が明けるとそこに雪に埋もれた少女の凍死体があつた。というような話に、教場で泣かされた。」(注41)木下尚江も長谷川如是閑も、中学卒業後は法学系統の学問へと向かった人だから、とくに文学と縁が深かったというわけではない。そうした人びとの心に、英語リーダーに掲載された物語は生涯忘れられることのできないほどの印象を刻みつけているのである。
 そして、もう一人、上に掲げた文章を書いた人物である。これを書いたのは、誰あろう、明治の実業界の大物・渋沢栄一の三男、秀雄であった。秀雄は、東京帝国大学の法学部を卒業したのち、英米各国を歴訪、帰国して田園調布の開発にあたるなど、実業界の第一線で活躍した経済人である。その自伝によれば(注42)、彼が中学に入学したのは明治三八年のことで、一年から五年までの間に、『ナショナル・リーダー』の一巻から五巻までを一冊ずつ習った。そのうち二年生の時に読んだ第二巻で、彼を最も感激させた物語が第三六課の「ボー・ピープちゃん」であったというのである。木下尚江といい、長谷川如是閑といい、渋沢秀雄といい、明治一〇年代から三〇年代までに中学時代を過ごした人びとの多くがそのようなことを述べているということは、それを単なる個人の感傷癖によるものとして片づけてしまうわけにはいかない、それなりの理由が備わっていたということになる。渋沢の分析によれば、その理由の核心にあったのは、「当時の日本には珍らしかつた」異国情趣をかきたてる「道具立て」であった。その「道具立て」ゆえに、彼らの心は、「感傷の詩情」でつつまれた。その意味からいうと、舶来英語リーダーというのは、とりわけそこに掲載されたマザーグースの詩やさし絵というのは、明治の時代精神を育む重要な要素の一つであったということができるのである。


五 英語教師の果たした役割

 本格的なマザーグースの紹介
わたしは先ほど、それを読む人びとに、マザーグースを読むという意識がなかった以上、その受容史上の価値はあまり高くないということを述べたが、厳密な意味でそれは正しくない。というのは、マザーグースの詩に接した多くの学生に関してはそういうことでまちがいないのだが、それを教えた英語教師に関しては必ずしも当たっていないからである。たとえば、明治四四(一九一一)年、当時開成中学校の講師であった長谷川康は、『英語之友』誌上に「Nursery Rhyme/いぎりすの守歌」というコーナーを設け、そこにナーサリーライム(マザーグース)の原文と翻訳を前後六回にわたってさし絵つきで紹介している。それが連載されたこと自体驚きに値することだが、内容を見るとさらに驚かざるをえないような実に優れた内容のものとなっている。参考までに、その第六回目のところに掲載された「ボー・ピープちゃん」の翻訳を「説明」文とともに掲げてみると、次のようなものである。【挿絵省略】

【説明】此歌は英米の児女の間に行はるゝ俗謡中極めて普通のものにして、ナショナル第二読本にも之に関係ある物語載り居れり。Bo-Peepは原来は「居ない、ない、ばァ」に当り、Boと云ひて顔を隠し、Peepと云ひて顔を出す時の詞なり。それを女児の名にしたるなり。俗謡の常として本篇も格別まとまつた意義あるに非ず。今之を訳するに「かちかちやーまのうさぎのこー、なーぜにお耳がなーがいの?」の節に準じたり。但し西洋にてかゝる節にて歌ふにあらず(注43)。

  ボピープちやん
ボピープちやんの 羊の仔(こー) Little Bo-peep has lost her sheep,
迷児の迷児の羊の仔(こー) And can't tell where to find them;
何処へ往たやら羊の仔(こー) Leave them alone, and they’ll come home,
今にお宿へ戻るだろー And bring their tails behind them.
可愛い尻尾をふりながら。

ボピープちやーんは コーコーコー Little Bo-peep fell fast asleep,
ねんねをしました コーコーコー And dreamed she heard them bleating;
羊が啼いてる 嬉しやと But when she awoke, she found it a joke,
お眼をさませば 影もない For they were still a-fleeting.
どーこに居るやら羊の仔(こー)。

牧杖取り上げて ボピープちやん Then up she took her little crook,
どれ探しましよー羊の仔(こー) Determined for to find them;
こゝに居たのね、嬉しやと She found them indeed, but it made her heart bleed,
見れば哀しや いたはしや For they'd left all their tails behind'em.
  尻尾を亡くした羊の仔(こー)。

 これをみると、長谷川がいかに深い知識をもって、マザーグースの詩を紹介していたかがわかるだろう。この詩が掲載された『英語之友』という雑誌は、明治四二年一月の創刊号に掲げられた「発刊の辞」(注44)をみると、「天下の中学生諸君、さては、独学の諸士の為めに、英語研究の友となり英語を容易しく面白く学ばしめる雑誌である」と記されている。長谷川は、その主な購読者である中学生や英語の「独学者」の注意を喚起するために、まずその詩と『ナショナル・リーダー』に掲載された物語の関係にふれ、その上で詳しい紹介にはいる。そしてその紹介というのが、またこれ以上ないほど用意周到なものとなっている。最初に、原詩を掲げ、その次に訳文を掲げ、むずかしい語には語注をつける。さらには、イギリスのナーサリー・ライムの楽しい雰囲気を伝えるために、原本のさし絵を写真にとって掲載することも忘れない。しかも、そこに添えられている訳文は、「ボピープちやんの 羊の仔(こー)/迷児の迷児の羊の仔(こー)」というように、中学生たちの耳になじみやすいように、「かちかちやーまのうさぎのこー」の節にあわせて訳出する、という至れり尽くせりのものである。
 そしてなによりも重要なのは、中学生たちがそれを学習する意図がはっきりと示されているということである。長谷川は、この連載の第一回目のところで、マザーグースを学習することの意義を述べ、それをその後の連載において繰り返し掲載している。すなわち、マザーグース(ナーサリー・ライム)というのは、日本の子守歌がそうであるように、「無邪気な事を口調よくいつてあるだけで別に深い意味など」ない。そこに、かえって「捨て難いおもしろ味」があるのであって、諸君は「意味のわかるわからないに拘らず」、十分「発音」を研究した上で「諳誦して御覧なさい」(注45)と。
 これは実に適切なマザーグース(ナーサリーライム)の定義である。同時に、実に適切なその鑑賞法でもある。「別に深い意味など」ないナンセンスな事柄がただ「口調よく」ならべられているだけの詩句に、なんとも「捨て難いおもしろ味」が生じる。すべての詩や文学の理解は、この「捨て難いおもしろ味」を肌身で感じ取るところからはじまる。とりわけ、長谷川が好んで雑誌に取りあげているような作品(そこには英米の詩はもちろん、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の紹介なども含まれていた)は、こうした原文にそなわる固有の音とリズムへの感応なくして真の理解はとうていのぞめない。マザーグースの本邦最初の本格的紹介者である長谷川が、同時に『不思議の国のアリス』の本邦最初の訳注者となっているというのも、決して偶然のことではなかったのである(注46)。
 明治の人びとは、マザーグースを読むという意識なくしてそれを受容したということを述べたが、一部の人びと、とりわけ中・高校生に英語を教える人びとの間には、このような深い知識と見識をもってそれを理解し、生徒に紹介していた人びとがあったことを忘れるわけにはいかないだろう。
 ハンプティ・ダンプティ紹介の第一号
そのような教師は、ひとり長谷川康だけにかぎったものではなかった。たとえば、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』に登場するハンプティ・ダンプティなども、英語雑誌をひもとけば、すでに明治三〇年代には最初の紹介がなされていたことがわかる。ところが、これまでの日本におけるマザーグースの研究では、ハンプティ・ダンプティの紹介は一九一九(大正八)年の土岐善麿の訳までまたなければならないというのが通説となっていた。その年の三月に出版された「Otogiuta(おとぎうた)」と銘打ったローマ字詩歌集(注47)のなかに「Karappono Kame」という翻訳が載っているのが本邦初訳であると、鷲津氏の『マザーグースと日本人』には記されている。その歌は「Karappono Kame ga / Hei no ueni nokkatta, / Karrappono Kame ga / Hei no ue kara okkotta」という調子のもので、善麿は「割れてしまえば決して元に戻らない存在の卵を擬人化した」(注48)ハンプティ・ダンプティという認識がまったくない当時の読み手のために、詩の意味が理解できるよう「からっぽの甕(かめ)」に置き換えたのだという。
 ところが、一九〇一(明治三四)年六月に出版された『英語世界』の臨時増刊号には「英国少年愛読小説 鏡世界」(注49)と題する『鏡の国のアリス』の原文つき注釈が載っていて、ハンプティ・ダンプティに関しても詳しい解説がほどこされている。その解説を以下に示してみると、次のようなものであった。

Humpty-Dumptyとは元来卵の別名にして、古くより小児の謎などに此名用ひらる。…W. Vietor及びE. Dorr二氏の合纂にかゝるEnglisches Lesebuchによれば、最後の一行はCannot put Humpty-Dumpty together again.とあり。その意味は『Humpty-Dumptyが塀の上に座て居て、ひどくおッこッた。王の軍勢皆な寄つて来ても(王の力を以てしても)、元の様につぎ合せることが出来ん。Humpty-Dumptyとはなァに? 答 卵。』但し、此所にては此話に合せんが為に変更したるなり(注50)。

 注目すべきは文章後半の二重カッコ内の文章である。明らかにこれはハンプティ・ダンプティの詩の翻訳と見ていいものである。善麿の訳と比べると、注釈という性質上、多少解説的なのが難点だが、その一方で、「Humpty-Dumptyとは元来卵の別名」ということを明示した上での訳だから、「からっぽの甕(かめ)」などというまわりくどい言い方をしないですむという利点もある。そして、なにより重要なのは、これが『鏡の国のアリス』の第六章のハンプティ・ダンプティの原詩につけられた注釈であったということである。注釈者は、解説の前段で、ハンプティ・ダンプティの詩の最後の行は、英語リーダー(Englisches Lesebuch)をみると、“Cannot put Humpty-Dumpty together again.”となっているが、ここでは物語の内容に合わせるために入れ替えられたとはっきり断っている。つまり、マザーグースの原詩四行を明らかにした上での翻訳であったというわけだ。これが、土岐善麿の「本邦初訳」の年を一八年もさかのぼる、日本で最初のハンプティ・ダンプティの紹介であったと考えてまず異論はないところだろう。
 長谷川康の「いぎりすの守歌」といい、この「英国少年愛読小説 鏡世界」といい(注釈者の名前は記されていないが、雑誌発行の経緯から考えて東京外国語学校の関係者であった可能性が高い)、当時の英語教師たちのマザーグースに関する知識が決して生半可なものではなかったことを裏づける証拠といえるだろう。ここにあげたもの以外でも、たとえば、例の猫がバイオリンを弾く有名な詩が、「猫が三味ひくチントンシヤン/牛は浮れて月を跳び越へ、/馬も躍れば鼠よろこび、/鶏嬉れしさに駆けだして、/犬はおかしさに笑ひ出した」という訳文とともに、カラーのさし絵つきで巻頭に掲げられている雑誌(注51)もある。そうした、資料をすべて総合してみるならば、少なくとも英語教師の一部には、相当の高い意識をもってマザーグースを取り上げていた人物がいたということがわかるのである。明治期の英語リーダーを仲立ちとするマザーグースの受容を総合的に捉えるためには、それを受け入れた中学生たちのことばかりではなく、それを紹介・解説した英語教師にも注意を向ける必要がある。
 本論のまとめ
ということで、最後に、そうした英語雑誌による解説や紹介も含めて、明治期の英語リーダーを媒体とするマザーグースの受容の特徴を整理してみると、だいたい次の六点にまとめることができるだろう。
 第一に、英語教育を経路とする受容の流れを考慮に入れることで、マザーグースの受け入れが一気に二〇年以上もさかのぼるということである。それが講読された期間も、幕末から大正期へと及ぶ、きわめて長期的なものであった。
 第二に、それを目にした人びとが、竹久夢二などの個人的な著作の場合とちがって、英語を学ぶ国民のほとんどすべてであったということである。坪内逍遙も夏目漱石も正岡子規も、あるいは三宅雪嶺も長谷川如是閑も渋沢秀雄も、専攻分野にかかわらずみなその詩にふれたという、層の厚さが際だった特徴となっている。
 第三に、そこに掲載されているのが、マザーグースの原詩であったということである。マザーグースというのは、英語に固有の音やリズムを活かした詩、それも押韻の詩であることから、翻訳というかたちでは真の面白さは伝わらない。その点、英語教科書というのは、言語の習得に第一の目的がおかれているために、英米の人びとが理解するのと同じ立場に立ってそれを受け入れることができたというのがその特徴である。
 第四に、そうした教科書には必ず「独案内」「直訳書」と銘打った英語を学ぶ人びとのための教本が数多く出版されていて、そこに掲載された「直訳」や「意訳」が、日本のマザーグースの翻訳史をふり返る上で欠かすことのできない重要な文献資料となっていることである。いま仮に、それらの翻訳を数えるのに異なる翻訳者による訳文をそれぞれ一点とみなすならば、優に五〇点を超える翻訳が出回っていたことになる。
 第五に、それらの教科書のなかには、面白いさし絵をともなうものがあり、それが明治の日本人の視覚に訴えかけるきわめて興味深い読み物となっていたという点である。そうしたさし絵は、日本の出版社が発行する「翻刻書」や「独案内」「直訳書」のなかにも取りいれられ、それが、西洋童話のさし絵史や絵本史の先駆をなす重要な資料となっていることも見逃せない点であろう。
 そして最後に、その原詩を生徒たちに教える英語教師のなかにはマザーグースに関する深い知識を有する者もあって、彼らが英語雑誌に掲げたイギリス伝承童謡に関する解説が、日本のマザーグース理解の水準を押し上げるのに一役買っていたということである。
 要するに、これらのどれひとつをとっても、初期の受け入れの実態を解明する上で欠かせない重要なファクターとなっているものばかりである。日本におけるマザーグースの受容史は、この英語リーダーを仲立ちとする受け入れを抜きにして、とうていその全容に迫ることはできないということになる。



(1)鷲津名都江『マザーグースと日本人』(吉川弘文館、二〇〇一年一一月)二八〜三七頁参照。
(2)エ・エル・ハウ著『幼稚園唱歌』(今村謙吉、一八九二年五月)。そこに掲げられた「きらきら」は三節からなり、そのうちの第一節は「みうらの星は/金剛石のごと/あれにきらく/くすしくひかる」というもの。「我小猫を愛す」のほうは「われは小猫を愛せり/かれはわれにきずつけず/よきものあたへやしなはん/猫もわれを愛すべし」という、一節からなるもの。
(3)詳細は以下の書の巻末に付された「アンデルセン童話翻訳年表1(明治編)」を参照。川戸道昭・榊原貴教編『明治期アンデルセン童話翻訳集成』第五巻(ナダ出版センター、一九九九年一一月)。
(4)鷲津名都江『ようこそ「マザーグース」の世界へ』(日本放送出版協会、二〇〇四年一二月)一二頁。
(5)平野敬一『マザー・グースの唄』(中公新書、中央公論社、一九七二年一月)九〜一〇頁。
(6)藤野紀男「『幼稚園唱歌』とマザーグース初訳」『英学史研究』19号(日本英学史学会、一九八六年一一月)一八三頁。
(7)The Second Reader of the School and Family by Marcius Willson, Harper & Brothers, New York, no date, p.128.
(8)The Oxford Dictionary of Nursery Rhymes, ed., by Iona and Peter Opie, Oxford University Press, 1951, pp.397-8.
(9)木村毅『日米文学交流史の研究』(恒文社、一九八二年六月)五五二頁。ここには福澤の二度目の渡米は「慶応二年」となっているが、慶応三年の誤記。高梨健吉氏は『日本の英学一〇〇年』(研究社出版、一九六八年一〇月)のなかで、「福沢諭吉は慶応三年(一八六七)に幕府の軍艦購入委員の一行に加わってふたたびアメリカに渡り、多数の原書を買ってきて、これを福沢塾の教科書として用いることができた。一種類のテキストが何十部も備え付けられるようになったから、生徒はむかしのように原書を写しとる不便もなくなった」(一一頁)と述べている。
(10)『東京の英学』東京都史紀要第16(東京都都政史料館、一九五九年三月)一九五頁。
(11)前掲書、二〇四、二一三頁。
(12)荒正人著・小田切秀雄監修『増補改訂 漱石研究年表』(集英社、一九八四年六月)七六頁。
(13)The Second Reader of the School and Family by Marcius Willson, Book Selling Co., Tokio, 1881.巻末の奥付は「明治十三年十二月廿四日翻刻御届/明治十四年十二月出版」となっている。この翻刻書が出版された背景については、拙稿「明治時代の英語副読本(T)」『英学史研究』(日本英学史学会、一九九四年一〇月)参照。
(14)村井元道訳『ウィル/ソン氏 第二リイドル直訳』(三浦源助、一八八二年四月御届)三七〜三八丁。
(15)馬場栄久・細井僖吉合訳『ウヰルソン氏/第二リードル/独案内』坤巻(随時書房、一八八五年一〇月)一四二頁。
(16)一海知義注『陶淵明』(岩波書店、一九五八年五月)二五頁。
(17)Sargent's Standard First Reader Part Two, Rikugokwan, Tokio and Osaka, 1885.同書には日本語の奥付があり、そこには「明治十八年十二月十日出版御届/同年同月二十一日出版」とある。その六四から六五頁に「キラキラ星」の原詩が掲載されている。
(18)広原光太郎訳『サーゼント氏第一リーダー独案内』(京都 文求堂、一八八六年二月)。
(19)大村喜吉「概説/後期」『日本の英学一〇〇年』(研究社出版、一九六八年一〇月)四一〜四六頁参照。
(20)Barnes' New National Readers Number2, A.S.Barnes & Co., New York and Chicago, 1883, p.173.
(21)瀧川新訳『ニュー/ナショナル 第二読本独案内』(日進堂書店、明治一九年二月出版、同年九月一六日改題御届)一〇七〜一〇八頁。国会図書館所蔵の本は、中表紙に「明治十九年十二月七日内務省交付」の印が押されている。
(22)Barnes' New National Readers Number2, A.S.Barnes & Co., New York and Chicago, 1883, p.173.
(23)喜安W太郎著・福原麟太郎編『湖畔通信・鵠沼通信』(研究社出版、一九七二年一〇月)二三〇頁。
(24)No. I. The Royal Readers, T. Nelson and Sons, London, Edinburgh, and New York1887, p.32.筆者の所有するテキストの発行年は一八八七年となっているが、国会図書館には一八七五年出版のものが所蔵されている。コピーライトに関する記載がないので、初版の年については未確認。そこに掲載されている「メリーさんの羊」と「かわいい小猫」のさし絵を以下に掲げる。【挿絵省略】
(25)『赤い鳥』(一九二二年二月)に掲載された北原白秋の『まざあ・ぐうす』(アルス、一九二一年一二月)に対する広告文から引用。この文章に注目した平野敬一氏は、「この広告文は訳書の『はしがき』にある表現をそのまま借用しているところが多く、あるいは白秋自身の筆になるものかと思われる」と書いている。
(26)No. I. The Royal Readers, T. Nelson and Sons, London, Edinburgh, and New York, 1875.
(27)本書の巻末に記された日本語の奥付は以下のとおり。「明治十九年四月廿四日出版御届/同年六月出版」。中央に「東京六合館発兌印」の丸い大きな朱印が押されている。
(28)やはり奥付の刊記を掲げると、「明治十九年十二月九日出版御届/同十九年十二月廿八日出版/出版人 吉岡平助」
(29)江馬主一郎編著『ローヤル第一読本独案内』(大阪、江馬主一郎、一八八六年八月)四九〜五一頁。
(30)杣田弥三郎訳『ローヤル第一リーダ独学自在』(大阪、小谷松恵堂、一八八六年一一月)五一〜五四頁。国会図書館の所蔵本は、一八八七年一一月出版の再版。
(31)北原白秋「お靴の中に」『赤い鳥』(一九二〇年二月)六四頁。
(32)谷川俊太郎『マザー・グースのうた』第一集(草思社、一九七五年七月)二一頁。
(33)江馬主一郎、前掲書、一五頁。
(34)江馬主一郎、前掲書、四七頁。
(35)木村小舟『少年文学史』明治篇上巻(童話春秋社、一九四二年七月)一四五頁。
(36)Swinton’s Second Reader, N.H.Toda, Tokyo, 1888, pp.142-3.東京の戸田直秀が発行したこの翻刻書は、一八八八年二月初版で、五年後の一八九三年五月には第八版を数えている。
(37)平山清春訳『スウヰントン氏第二読本直訳』(平山清春出版、富山房書店発兌、一八八七年六月)一一五〜一六頁。
(38)渋沢秀雄「古いリーダー」『学鐙』(一九六二年二月)一六〜一九頁。「むかしの中学は五年制だつたから、一から五までのリーダーを、一年から五年までに一冊ずつ教わつた。」とある。
(39)『ナショナル第二リーダー』に掲載された原文をあげると以下のとおり。
LITTLE BO-PEEP
One day I saw John coming with a basket. He gave it to me and said, "Little Bo-peep, take care of your sheep."
I looked in, and there was a dear little lamb in the basket.
I named her Bo-peep, and put a little bell on her neck.
〔中略〕
One night I was sick, and asked nurse to take care of Bo-peep, and she said "Yes, dear."
In the morning I ran to the wood-box to find Bo-peep. She was not there!
When nurse came in she said, "O I am so sorry! I forgot to bring the poor little thing into the house!"
I ran out to the barn, and there was little Bo-peep, dead.
I could not help crying. The next morning, Ned and I buried her in the garden, under an old apple-tree.
Ned put up a piece of board on the tree, and I wrote this on it--
"Little Bo-peep,
Fell fast asleep."
(40)木下尚江『良人の告白』(明治三七年〜三九年にかけて『毎日新聞』に断続的に掲載、のち単行書として刊行)。なお、同作品の引用は、『木下尚江集』明治文学全集45(筑摩書房、一九七九年)から引用。
(41)長谷川如是閑『ある心の自叙伝』(朝日新聞社、一九五〇年六月)一四八頁。
(42)渋沢秀雄『私の履歴書』22(日本経済新聞社、一九六四年一一月)。渋沢の通った中学校は、東京高等師範学校付属中学校で、「日露戦争は私の小六と中一のときだった」とある。渋沢の生まれは明治二五年一〇月だから、中学二年のときは一三、四歳。
(43)長谷川康「NURSERY RHYME/いぎりすの守歌/[その六]」『英語之友』三巻一〇号(建文館、一九一一年一〇月)一三〜一五頁。このときの長谷川の肩書きは、「開成中学校講師」と記されている。
(44)『英語之友』一号(一九〇九年三月)二頁。
(45)『英語之友』三巻一号(一九一一年一月)一〇頁。
(46)長谷川康訳注「不可思議国探検記」『英語之友』(一九〇九年一〇月から六回連載)。詳しい内容については、拙稿「明治の『アリス』―ナンセンス文学受容の原点―」『児童文学翻訳作品総覧1 イギリス編1』(大空社、二〇〇五年六月)参照。
(47)土岐善麿『Otogiuta』(日本のローマ字社、一九一九年三月)三六頁。
(48)鷲津名都江『マザーグースと日本人』七九頁。
(49)「英国少年/愛読小説 鏡世界」(無署名)『英語世界』六巻一八号(「英語世界臨時大刊 世界奇談」とある)。この詳しい内容についても、前掲の拙稿「明治の『アリス』―ナンセンス文学受容の原点―」参照。
(50)前掲「英国少年/愛読小説 鏡世界」、注釈三一頁。
(51)『正則/初等英語』第一巻第二号(初等英語社、一九〇九年二月)巻頭口絵。この雑誌の創刊は同年一月。編集は松沢敏貞、編集主任は星野久成。これも無署名のため訳者は不明。参考までに、そこに掲げられている原詩の英文は以下のとおり。
HEY diddle diddle, the cat and the fiddle, / The cow jumped over the moon; / The horse danced, the rat rejoiced; / The cock ran away with delight; / And the dog laughed to see such sport.
 なおこの雑誌には、ほかにもう一つ、次のマザーグースの詩と意訳が掲載されている。
MONTHS OF THE YEAR 意 訳
Thirty days hath September, 九四六と十一は三十日よ
April, June, and November; 残る七つは大とこそ知れ.
All the rest have thirty one, さりながら二月は二十八日よ
Excepting February alone, 閏年だけ一日を増す.
Which has just eight and a score,
Till leap year gives it one day more.
 日本にはこれと「同巧」の次のような「和歌」があって、この意訳はそれにあわせたのだという。「一三五七八十や十二月/残る五つは小とこそ知れ./閏年は四年に一度その時は/二月の末に一日を増す.」。


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