ミステリー小説のあけぼの


ミステリー小説のあけぼの
  ―神田孝平と「楊牙兒ノ奇獄」―  川戸 道昭
(『翻訳と歴史』第8号、2001年9月刊、より)

1 雑誌に掲載された西洋小説の第1号
 日本の文学界に本格的に西洋の翻訳小説が紹介されはじめるのは明治11年の『花柳春話』が最初といわれる。これはイギリスのブルワー・リットンの才子・佳人の物語を翻訳したもので、それを「欧州奇事」と銘打って売り出したところ、当時の読者の好尚に投じて爆発的な人気を博した。それ以降、日本の文壇では、「西洋」「奇談」の文字を冠した翻訳小説が主流となり、坪内逍遥や二葉亭四迷が登場する以前の文学的潮流を形成していく。
初期の翻訳文学の流れを概観すると大体そういうことになるかと思うが、実際には、『花柳春話』以前にも西洋の翻訳小説がなかったわけではない。そうした黎明期の翻訳小説のなかでもとくに注目されるのは、明治10年9月から翌11年1月にかけて『花月新誌』に連載された神田孝平の「楊牙兒ノ奇獄」という作品である。これが実際に当時の読者の心にどのような印象を刻みつけていたか、ひとつその証拠となる資料をあげてみよう。以下に掲げるのは、森鴎外の『雁』という作品の冒頭第一章にみえる記述で、描かれている時代は「楊牙兒ノ奇獄」が発表される3年後の明治13年。当時医科大学の学生であった語り手の「僕」が古本屋を仲立ちとして、やはり同じ大学に通う岡田と「心安く」なるまでの経緯が語られる場面である。

《岡田が古本屋をのぞくのは、今のことばでいえば、文学趣味があるからであった。しかしまだ新しい小説や脚本は出ていぬし、叙情詩では子規の俳句や、鉄幹の歌の生まれぬ先であったから、だれでも唐紙に摺った花月新誌や白紙に摺った桂林一枝のような雑誌を読んで、塊南、夢香なんぞの香奩体の詩を最もきのきいたものだと思うくらいの事であった。僕も花月新誌の愛読者であったから、記憶している。西洋小説の翻訳というものは、あの雑誌が始て出したのである。なんでも西洋の或る大学の学生が、帰省する途中で殺される話で、それを談話体に訳した人は神田孝平さんであったと思う。それが僕の西洋小説というものを読んだ始めであったようだ。》(『雁』岩波文庫[1970年改版]による)

  この文章において、われわれが注目しなければならないことは三つある。まず、日本の雑誌で西洋の翻訳小説を掲げたのは『花月新誌』が最初であったということ。さらに、そこに掲載された最初の翻訳小説は、「西洋の或る大学の学生が、帰省する途中で殺される」殺人事件を扱ったものであったということ。そして、もう一つ、その話が「談話体」に訳されていたということである。
 まず、最初の『花月新誌』に掲載された本邦最初の「西洋小説の翻訳」ということから簡単に説明を加えると、それは題名を「楊牙兒ノ奇獄」といい、明治10年9月から翌11年1月にかけて、15回にわたって同誌に連載されたものであった。日本の文壇に翻訳文学ブームが起こるきっかけをつくった『花柳春話』の出版が明治11年10月から翌12年4月のことであったから、それよりも1年ほど早いということになり、この作品が日本に紹介された西洋小説のなかでも最も古いものの一つであることがわかる。
 上に引用した『雁』の記述は「明治十三年の出来事」と記されており、鴎外がそれを雑誌『スバル』に発表したのは明治44年9月のことであったから、これは31年前のことを回想した記述ということになる。その割に記憶が正確なのは、一つには、それを掲載した『花月新誌』の影響もあったと思われる。当時第一級の文士でありジャーナリストであった成島柳北が編集した『花月新誌』という雑誌は、上の引用文にもみえるように、和漢の文学に多少の興味を懷くものならば「だれでも」読んでいた。その雑誌がとりあげる旧来の文学作品のなかに、突然、異彩人の目を奪う「西洋小説の翻訳」が掲載されたのである。これにはE外も大きな衝撃を受けたに違いない。30年もたっても鮮烈に記憶に残っているというのは一つにはそうした事情が関係するものと思われる。われわれは、この成島柳北編集の『花月新誌』に掲載された日本で最初の「西洋小説の翻訳」の存在にまず注意を向ける必要がある。

2 ミステリー小説の先駆けとして
 そしてもう一つ、E外にとって衝撃的であったと思われるのは、その小説のテーマが、「西洋の或る大学の学生が、帰省する途中で殺される」殺人事件であったということである。日本の雑誌にはじめて取りあげられた「西洋小説の翻訳」が、なんとミステリー小説であったというのだ。これにはE外ならずとも驚かないわけにはいかない。一体それはどんな種類のミステリー小説であったのか。早速、そのストーリーの点検にとりかかると、こんな内容のものであった。
 ある冬のこと、大学生の楊牙兒(ヨンゲル)は、学校が一斉休暇に入り、十里ほど隔てた故郷に帰省することになった。故郷へ出立する前の晩、親友たちが集まって彼のために別れの酒宴を催す。席上、先の学校祭の折りに上演されて大いにあたりをとった喜劇のことに話がおよび、その台詞をめぐって仲間の間に論争が起きたため、作者の楊牙兒は原稿をもってきて彼らに見せる。仲間の一人が是非それを刊行するようにと勧めると、楊牙兒もそのつもりで、できればこの帰省中に手直しをして、今年中に刊行したいとのことであった。翌日、楊牙兒はその原稿を携えて予定どおり帰省したが、それっきり二度と彼は友人の前に姿を現すことはなかった。
 心配した父親がやってきて、大学までの途次を八方手を尽くして探し回ったが、だれ一人楊牙兒に会ったというものはない。極寒のこととて、薄氷を踏んで深淵に落ちたのではないかということが懸念され、父親は、新聞に溺死したと思われるわが子の遺体を見つけたものには謝礼をするという広告を載せたところ、果たせるかな37日たって水中より彼の遺体が発見された。ところが、驚いたことに、その死因は溺死ではなくて殺人によるものであることがわかった。一転、物語は凶悪な殺人事件へと発展していく。捜査官たちは必死に犯人の割り出しに努めたが、浮かび上がった容疑者はことごとく潔白ということになり、とうとう事件は迷宮入りしてしまう。
 ところが、事件から1年半もたったある日、楊牙兒の友人の一人で大学を卒業して官吏となった者が、楊牙兒が行方不明になったあたりの旅館の一室で奇妙なものを発見する。手紙を書こうとして机の引き出しを開けたところ、その奥の方から見覚えのある楊牙兒の原稿が出てきたのである。中を開いてみると、表紙裏の白紙の部分にラテン語で自分は今賊の手にかかって殺されようとしていると記されている。びっくりした友人は旅館を抜け出し、当地の役人のところにその原稿をもっていった。役人はその原稿をもとに、旅館の使用人をきびしく尋問したところ、当旅館の主人と女房が、共謀して楊牙兒を殺害したことを自白する。彼らは、前の晩に殺害した行商人の遺体を楊牙兒にみられ、口封じのために殺害におよんだというのがその真相であった。かくして、事件発生から1年半以上が経過して、ようやく本件は落着をみるというのが一篇のあらすじである。
 以上のストーリーをミステリー小説の観点から考えてみた場合どういうことになるか。まず、一番肝心な物語の構想についていうと、そこには現在の作品には決してみられない未成熟な部分が見受けられる。たとえば、作品冒頭において、主人公はほどなく殺害されることが予告され、その殺人事件解明の鍵をにぎるのが彼の書いた喜劇の台本であるというように、ストーリーの帰結部分があらかじめ読者に示されてしまっている。これでは、ミステリー小説としての興味は半減してしまう。同様なことは真犯人を割り出すまでのプロセスについてもいえる。作品の後半に至って、楊牙兒の原稿が発見される場面で、それが発見されたのが旅館であったために、その旅館の主人と女房が疑われ、尋問の結果、型どおり彼らが楊牙兒殺害の首謀者であることが判明する。現在の作家ならばそこに一ひねりも二ひねりも加えて、謎が謎を呼ぶ錯綜したストーリーを考え出してゆくところだろうが、すんなりと二人を犯人にしてしまっているところにミステリー小説として物足りなさが感じられる。
 しかし、確かにそうした不備はみられるが、細かい部分に目を向けるならば、ミステリー小説に欠かせないいくつかの主要な要素もみられないわけではない。たとえば、楊牙兒が行方不明になって以降、その遺体が発見されるまでの状況が描かれた次の文章には、読者の心を引きつけずにはおかないある種の緊迫感のようなものが感じられる。

《〔楊牙兒が行方不明になって以降数日を経て〕俄に寒気緩み、氷も少し解けたりければ、父は新聞紙に記載を頼み、触出だしけるは、我子溺死したりと覚ゆ。若し其の死骸を見出して告ぐる者有らば数多の謝金を贈らんと。其の後三七日も過ぎしに、果して楊牙兒の屍は水中より出でにける。併しながら、其屍は尋常の溺死にはあらで、実に目も当てられぬ有様なりき。さて楊牙兒の死骸は如何して水中より出でしと問ふに、一個の舟子八村の辺を乗り行く折、何やらん棹に掛りし物有り。鉤に懸けて引揚げ見れば、大なる筵包みなり。されど、甚だ重くして、一人の力に及ばねば、他の舟子呼び、力を合せて堤の下に引寄せ、頓て之を解き見れば、其中より死骸出たり。直ちに其地の役所に訴へ出づ。検視の医員来り、之を査するに、其人は強悪非道の手に死したるに相違無く、衣類は尽く剥ぎ取られ、只、襦絆のみ屍に付きたり。其の襦絆の精密なるにて、多分良家の人なることを察せり。是れ即ち、近比、行衛の知れざりし楊牙兒の屍にて有りし。》(『花月新誌』に掲載された文章は、仮名の部分はすべてカタカナで表記されているが、ここでは読者の便宜を考えてひらがなに直して引用した。以下、とくに断りのない場合は同様。)

 これは間違いなくミステリー小説の筆法である。最初に行方不明となっている楊牙兒の捜索の様子が伝えられ、それが一転凶悪な殺人事件へと発展し、死体の状況が克明に述べられていくという話の展開は、現在のミステリー小説と比べて何ら違いはない。そこには読むものの心を引き込まずにはおかない迫力のようなものが感じられる。殺人事件と特定されるまでの話の流れにも論理的破綻は見られないし、細部の状況証拠の示し方にもそれなりのリアリティーがそなわっている。死体があがって以降の事件の捜査法も、現在の警察の捜査法にも共通する科学的な実証精神に裏打ちされたものといっていいだろう。つまり、この部分に限ってみるならば、ミステリー小説としてのおもしろさを十分にそなえた作品ということができるのである。
 それを作品全体として考えてみた場合どういうことになるかというと、ストーリーの構想にやや難点はみられるが、ミステリー小説としての基準は一応満たした作品ということになるのではないだろうか。
 われわれが忘れてならないのは、それが明治10年というきわめて早い段階で世に問われたミステリー小説であったということである。よく知られるように、近代写実主義小説論のはじまりといわれる坪内逍遥の『小説神髄』が発表されたのは明治18年のことであり、それを契機に西洋の小説に見られる精緻な表現法を獲得するためのさまざまな試みが本格化するのはようやく明治20年代に入ってからのことであった。その時から数えても「楊牙兒ノ奇獄」の発表は10年以上も早いということになる。その段階で、このようなリアルな表現方法に裏打ちされた作品が存在したということは、日本のミステリー小説史上特筆に値することといえるだろう。

3 新しい文章上の試み
 いや、ミステリー小説史上だけではない。それは日本の近代文学・文章史上においても同じように特筆に値することであった。先に引用した文章をみてもわかるように、この作品にはそれまでの日本の伝統的な文学作品には決してみられなかったきわめてリアルな状況描写が見てとれる。現実の出来事やその出来事を見守る人間の心の裡を描き出す迫真の描写はこの作品においては決してめずらしいことではない。たとえば楊牙兒の旧友が旅館の一室でラテン語で書かれた彼の走り書きを読んだ時の心理描写などにもそれはみてとることができる。この小説の編集を手がけた成島柳北は、そうした細密な状況描写や心理描写が当時の日本には存在しない西洋文学に特有なものであることをいち早く見抜いて、わざわざ独自のコメントまで加えている。当時の知識人たちの西洋の小説に対する考えを知る上でも大変重要な問題と思われるので、その心理描写とそれに続く柳北のコメントを以下に掲げてみることにしよう。
 
《右の書置きを一読し、我等の心神忽ち顛倒錯乱して、全身の血は頭上に昇騰し、筋脉顫動し、意識の変化速かなる
こと宛も電の如く、眼中に物象現はれ、握らんとすれば忽ち光線と成て消え失せなどし、遽かに悪寒を生じ肩背氷の如
し。我等既に極秘の悪事を見出し、楊牙兒を殺せし者は現在此家の夫婦たるを知りしに因り、胸中種々の想像起り、
此の一室は即ち楊牙兒が悪党と組合たる場所ならん、顛倒したるは此辺なるや、絶命に及びしは彼辺なるやなどゝ、
心に浮み面のあたり見るが如く、暫し呆然として身体大に疲れたり……
柳北云、和漢文人の記事には、決して這様の実況を精細に筆せず。是れ泰西記事の真率にして最も妙味有る所な
り。》

 この最後のところで柳北が述べている「泰西記事」に関する考えは、「楊牙兒ノ奇獄」の革新性を言い表してあまりあるものがある。日本の文学作品には決してみることのできなかった「精細」な状況描写、そうした描写によってはじめて読者の心に伝えることが可能になった物語の緊迫感、迫真性。それこそは、「楊牙兒ノ奇獄」というミステリー小説にそなわる魅力の根源ともいえるものであった。日本の読者は、この作品の出現によって、はじめてそうした精緻な表現法を目の当たりにすることになったのである。それに加えて、もう一つ、「楊牙兒ノ奇獄」には日本の小説史上見逃せない重要な事柄がある。それは、鴎外も指摘するように、従来の日本の文章にはみられない「談話体」が用いられていることである。そうした「談話体」が採用されているのは、証人の陳述や尋問が行われる二つの主要な場面にかぎられている。しかし、それは鴎外のような文学に関心を懐く人々の興味を引きつけずにはおかない、きわめて斬新な表現法であった。たとえば、そのうちの宿屋の使用人である「非立(ヒリップ)」が、「役頭」に取り調べを受ける場面はこのような文章によって綴られている。

《役〔頭〕「是れ、其方は鬼も及ばぬ悪党にて候。……死骸を川へ流がしたるは、其方一人の所為か、又は、其方主人も手伝ひ候や。其方の口より直ぐに承はり度、其の為めの吟味にて候ぞ。非〔立〕「私々々、私儀々々々々、私は何事も、なゝ何事も仕りませぬ。役「其方、能く自身の容体を顧みよ。心中何事も無き者が、其様に顔色青ざめ、言語吃り申す可きや。其方は人非人にて候。人殺しの証拠は、既に我等が手の中に在るを知らずや。非「人殺しとは、人殺しとは、私儀々々々々、南無大菩薩。》

 これがいかに当時の時流を抜いた文章であったかは、たとえばこの作品の1年後に発表された『花柳春話』の文章と比べてみればわかる。同じ会話文の翻訳ではあっても、『花柳春話』のほうは、「君、若し意あらば、一夜を此茅屋に明すべし。僕、好んで此言を発するに非れども、唯君の旅労を想へばなり」というように、漢文に基礎をおいた古めかしい文章が用いられている。それに対し、「楊牙兒ノ奇獄」のほうは「私は何事も、なゝ何事も仕りませぬ」というように、人の発する言葉をそのまま写し取った斬新な表現法となっている。このような「談話体」で綴られた文章は、分量的にみると、全体の十分の一にも満たないものではあるが、それでも当時の読者の脳裏に印象を刻みつけるには十分なものであった。そのことを最も端的に言い表しているのが、鴎外の「それを談話体に訳した人は神田孝平さんであった」という文章である。彼の脳裏には、物語の大半をしめる旧文体で綴られた記述文よりは、その一部を構成する「談話体」の文章のほうがより強く印象に残った。そして31年後にそれを回想したときに、「談話体」の部分のみが消えずに残って、こうした表現につながったものと解釈できるのである。
 先に述べた「実況を精細に」表現する方法といい、この「談話体」といい、「楊牙兒ノ奇獄」という作品には、近代日本文学の歯車を前進させる上で欠かせない重要な文章上の工夫が見てとれる。そうした試みの革新性が一番よくわかっていたのは、当時の文学環境に身をおいていた柳北や鴎外らであって、彼らの残した証言にはとくに大きな関心を向けてみる必要がある。文学にかぎらずあらゆる学問の領域において発想の転換が求められている今日、われわれに必要とされるのは従来の枠組みにとらわれない幅広い視野に立った文学や文化の見直しである。そのような観点から初期の翻訳文学を振り返ってみる場合、この「楊牙兒ノ奇獄」という作品は、単にミステリー小説の先駆けとしてばかりではなく、近代文学の先駆けとしても確実にそうした見直しが必要な作品の一つということになるだろう。

4 神田の訳稿と柳北の「刪正」――その成立背景
 「楊牙兒ノ奇獄」の文学史上の評価についてはそういうことであるが、最後にこの作品の成立背景についても簡単にふり返っておくことにしよう。それが翻訳されたのは、文久元(1861)年と古く、『花月新誌』に掲載される16年も前のことであった。原作は、オランダ人のJ・B・クリステメイエル(Jan Bastiaan Christemeijer, 1794-1872)という人物が書いたBelangrijke Tafereelen uit de Geschiedenis der Lijfstra ffelijke Regtsplegling (1821) という書物で、内容は、死刑囚に関する事件のなかで最も興味ある事件の記述12篇を集めたものだという(宮永孝『幕末維新オランダ異聞』〔日本経済評論社、1992年〕参照)。神田は、そのなかから2篇を選んで、「ヨンケル・ファン・ロデレイキ一件」「青騎兵並右家族共吟味一件」という表題のもとに訳出し、それに「和蘭美政録」という統一題を与えた。しかし、その翻訳はすぐには刊行されず、しばらくそのままにしてあった。
 あるとき、成島柳北がそれを借り受けて、読んでみたところ大変面白かったので、彼が仕えていた「昭徳公(14代将軍徳川家茂)」のところに持っていって見せた。ところが、その稿本は、不幸にも、将軍家を襲った混乱にまぎれて行方不明となってしまう。柳北にとって、なんとも悔やまれることであったが仕方がない。なかばあきらめかけていたところ、さいわいにも友人の一人がその写本を手に入れ珍蔵していることがわかった。それは、上巻の「ヨンケル・ファン・ロデレイキ一件」のみで「青騎兵並右家族共吟味一件」のほうはなかったが、ともあれその写本をもとに、それを短く「節約」し て「楊牙兒ノ奇獄」という作品に仕立て自ら編集する『花月新誌』に掲載したというのが、雑誌掲載までの経緯である。
 ここに掲げた稿本完成以降の一連の経緯は、柳北が「楊牙兒ノ奇獄」の序文のなかで述べていることを要約したもの だが、その翻訳が神田の原訳を短く「節約」したばかりでなく、先ほどの引用例にもみられるように、編集者の柳北が勝 手に意見をつけ加えた箇所があるとなると、一体、どこまでが神田の手になるもので、どこまでが柳北の訂正・加筆に よるものなのかという問題が起こってくる。つまり、この作品の功績を神田のものとするか、柳北のものとするか、あるいは、神田のものとするにしても、そこにどこまで柳北の加筆の功を認めるかという問題が起こってくる。
 そこで、どうしてもここで確認しておく必要があるのは、翻訳者の神田自身はこの一連の経緯をどうみていたかということである。神田は、「楊牙兒ノ奇獄」が『花月新誌』に掲載されてから15年が経過した明治25年1月、上記の2篇を、自分自身の手で発表する機会をもつ。そして、その冒頭に一文を寄せて、『和蘭美政録』の翻訳を手がけた経緯について、あるいは柳北の「楊牙兒ノ奇獄」について、自らの胸の裡を次のように語っている。

《余の之れより本欄に掲げんとする所の二編は、三十余年前、我が為せる翻訳の草稿なり。原書は和蘭文にて、種々 なる訟獄の奇案を輯録せるものなるが、此二編は其中より抄出したるなり。一時為めにすることありて為したる業に て、深く心を留めず。遇々人の借り去るに任せ、其所在をも失ひたりしに、先年、故成島柳北、其一編を得て痛く刪正 を加へ、《揚牙兒奇獄》と題し、其編輯する《花月新誌》中に収めたり。予之れを見るに、文は則ち佳なりと雖も、事実の 大いに減省せしは遺憾なきにあらず。然るに頃日博文館員宮川大壽氏、余が居所を訪ひ、再び之を其編輯する所の 《日本之法律》中に採録せんとて、予の承諾を求められたり。予固より異議なしと雖も、同じくは予が原稿二編を合せて 採録せられんことを望みしに、議協ひたれば、前に旧友の写し置たる草稿を探り得て、之を送付することゝ為しぬ。送 付するに臨み一読するに時勢進歩の疾なる、訳語中、今日に適せざるもの多きを覚へたれば、其甚しきもの一二を改 めたり。文中、警察、公債証書、探偵等の、三十年前になかりし新語あるは之れが為めなり。其の余尚ほ穏かならざる ところなきにあらざれども、病褥中悉く之れを改むる能はず。看者幸に之れを恕せよ。明治二十四年十二月、孝平誌 す。》

 要するに、神田の文章を簡単にまとめるとこういうことだ。ここに掲げる翻訳の草稿は30数年前に完成したものだが、 あまり気にも留めずに人に貸したところ紛失してしまった。先年、成島柳北がそのうちの一篇を探し出し、それに「刪 正」を加えたものを『花月新誌』に掲載した。その翻訳は、文章はいいのだが、事実関係を省略している点で不満が残 る。そういうこともあって、この度『日本之法律』の編集者から「楊牙兒ノ奇獄」を同誌に採録したいという話があったとき に、自分はそれに応ずることにした。しかし、どうせ載せるならば「ヨンケル・ファン・ロデレイキ一件」1篇だけではなく て、「青騎兵並右家族共吟味一件」のほうも載せたいと考え、旧友が写し取っておいた草稿を探し出し、多少の手を加 えてここに掲げる、と。
 実は、この神田の文章は彼の実家に草稿が伝わるだけで、実際雑誌に掲載されたかどうかは確認されずにきた。それを掲載した『日本之法律』が見つからないというのがその理由であったが、それがどうしても見つからないために、は たして神田のいうとおり『日本之法律』に掲載されたものかどうか疑問視されてきた。たとえば、伊藤秀雄氏の『明治の 探偵小説』(晶文社、1986年)には、「明治二十五年四月十五日の『日本之少年』(第四巻八号)には『和蘭小説 青騎 兵(五)』……があり、……楊牙児の方はまだ発見できないけれど、もし載ったものとすれば、多分それも『日本之法律』 ではなく『日本之少年』であったろう」と記されている。しかし、今回わたしが調査したところによると、間違いなくそれは 『日本之法律』に載っている。今後の研究のためにその詳細を掲げておくと、「探偵小説 青騎兵」は明治25年1月から5月までの5回、「楊牙兒奇獄」のほうは同年6月から10月までの5回、それぞれ掲載されている。伊藤氏が言及している 『日本之少年』のほうにも、同じものは載るには載ったが「探偵小説 青騎兵」(明治25年1月〜6月、7回連載)1篇だけで「楊牙兒ノ奇獄」のほうは掲載されなかった。両誌とも博文館の出版であるところから、『日本之少年』は『日本之法 律』の原稿を借り受けて転載したものと思われる。
 このように神田自身の手になる翻訳が見つかったということは、それを訳した原訳者の意図をうかがう上で大変大きな意味がある。神田は柳北が「刪正」を加えたその作品のどの部分に不満を懷き、それをどのように訂正しようとした のか。双方の翻訳を照合することによってそれを明らかにすることができるのである。そのように考えて、早速『日本之 法律』と『花月新誌』掲載の翻訳を照合してみたところ、驚いたことに、双方ほとんど同じ内容であることがわかった。漢 字をのぞいて全文がひらがなに改められているというような表記上の違いはあっても、内容的にはほとんど変わらな い。恐らく、神田は、「青騎兵並右家族共吟味一件」の翻訳を世に送り出すことに主眼をおいて、柳北の編集した「楊牙 兒ノ奇獄」に手を加えることはしなかったのだろう。「病褥中」ゆえそこまで手が回らなかったというのが実際のところではなかったか(ちなみに、この「探偵小説 青騎兵」という作品であるが、内容的には、筋の展開等で「楊牙兒ノ奇獄」を 凌ぐ面もあるが、一般読者への公表が明治25年と遅く、ミステリー小説受容史上の価値は「楊牙兒ノ奇獄」に及ばない。2篇が同時に明治10年の段階で公表されていたら事情はまた違っていたのではないかと惜しまれる)。
 ともあれ、『日本之法律』に掲載された「楊牙兒奇獄」は、柳北編纂の「楊牙兒ノ奇獄」をもとにしたもので、それに対 する神田自身の具体的な不満点や改良点を明らかにすることはできない。しかし、それはできないが、神田の原訳と 柳北の訂正稿を比較して、柳北の加筆・訂正の背後にある意図を探ってみることは可能である。実は、神田家には彼が手がけた『和蘭美政録』の稿本の写しが残されていて、それを東京大学の吉野作造が筆写したものが『明治文化全 集 第14巻 翻訳文芸編』(日本評論社、昭和2年)に掲載されているのである。いま、その訳文を柳北編纂の「楊牙兒 ノ奇獄」と比べてみると、たとえば、書き出し冒頭の部分においては、こんな相違点が見受けられる。

《予がゲ府の大学校に寄宿せし時の事なりける。予が同僚に一人の若き書生あり。身分もよき人なり。我等平生此人 をヨンケル・ロデリツキと呼べり。》(神田訳)

《余ガ給府ノ大学校ニ寄宿セシ時ノ事ナリケル(余トハ原書ノ作者。以下同ジ)。余ノ同僚ニ一人ノ少年生有リ。余輩常 ニヨンゲル、ロデウツキト呼ブ。》(柳北編集訳。仮名表記は原文のまま。)

 要するに、使われている言葉の表記にも、内容にも、かなりの違いがみられる。たとえば、柳北編集の訳を基準にしていうと、「身分もよき人なり」という一文が抜けていたり、「(余トハ原書ノ作者。以下同ジ)」という注釈が加えられていたり、といった具合である。ここに引いた箇所以外でも、とくに物語の筋とあまり関係のない事柄については、楊牙兒の 役柄に言及した「刑獄学のカンヂダートシカツプという役付」の部分が、単に「刑獄学ノ役員」というように変えられてい る。あるいは、前に引いた「談話体」の文章でも、「私儀は何事も々々々何事も仕不申候」が、「私は何事も、なゝ何事も 仕りませぬ」というように平易な文章に改められている。神田の立場からすると、「事実の大いに減省せしは遺憾なきに あらず」ということになるが、ミステリー小説という観点からみると、そうした「刪正」によって、読者は余計なことに煩わされずに物語の内容に神経を集中しやすくなったということができるだろう。その点に関しては神田自身も認めるところで、先の序文のなかには文章字体はいい文章であるという趣旨の言葉がみえる。
 このように双方の原文を照合することによって明らかになってくるのは、あくまでも学問的な観点から翻訳が進められていった神田の草稿を、少しでも一般読者の読みやすいものへと変えていった柳北の編集者・文学者としての配慮であ る。それによって、当時としてはまれにみる斬新な文章による翻訳小説が出現したとなると、われわれは、この日本で最初のミステリー小説の成立を背後で支えた成島柳北の功績にも十分注意をみなけれぱならないということになるだろう。



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